『愛への帰還』メモ

目次

第1章 地獄

1 暗闇

外的な環境がどうあれ、私たちは私たちの在り方を決める自由があります。

私たちの輝きが少ないならば、それを邪魔しているのは政府や、飢餓や、貧困ではないのです。

ただ恐れている。それだけの事です。

失敗を恐れ、成功を恐れる。

マイナス思考が私たちを破壊するのです。

そうして、私たちはがんじがらめになり、自己嫌悪に陥ります。

「またチャンスを台無しにして!あなたなんて嫌い!」

それらに一時的に対処する方法は、いくらでもあります。

しかし、それでも問題は繰り返しやってきます。

そして、最後には、自分で考えだすこと以上の助けが必要であると、悟るのです。

☆所感

くり返し問題が生じるのは、自分が本当の自分を受け入れられていないからです。

しかし、あなたはそのままで愛されています。あなたは無実です。

その認識に帰るのが、愛への帰還です。

親や周りがなんといおうと、自分がなんと思おうと、あなたはもっと輝けるのです。

2 光

私たちはくり返し生じるエゴ(恐怖)の糸にがんじがらめにされ、地獄を経験します。

そこから、神に向かって「神様、どうぞ助けてください」と叫び声をあげることができるようになるのです。

そして、その瞬間が歓喜の一瞬ということでもなければ、ただ天国のような生活が始まるというわけではありません。

ただ、山登りが始まるというだけなのです。

しかし、本当の底まで行きつくと、めくるめくような開放感が得られます。

あなたは、自分より頭の良い存在が宇宙に存在するという考えに抵抗して一生を費やしてきたのに、今や突然、それが真実であると知って、ほっと胸をなでおろすのです。

突如として助ける求めるには、あまりにも誇り高かったあなたは、姿を消さなければなりません。

これが、神に身を委ねるということです。

☆所感

自分自身の握っているもの、それがあなたの人生を窮屈にして、苦しめています。

苦しみは敵ではありません、目覚めよというメッセージです。

もう限界だとすべてを投げ出したくなるとき、そのときほど奇跡は近づいています。

あなたの認識が変われば、現実も変わるのです。

第2章 神

1 神は岩盤である

人生で起こる、様々なドラマ。

悲劇や喜劇。

そういった人生の流動性の中にあっても、戻れるところがあります。

それが、神=愛です。

どんな状況でも、愛をもって考えるかどうかは、完全に私たちに任されています。

☆所感

日々の生活の中で、「俺、すごいじゃん」と希望を思ったり、反対に「俺なんて…」と絶望してしまったり、外部の出来事に心は揺るがされますよね。

相手を責めたり、自分を責めたり。すると、世界が地獄だったり、早く終えたい苦行の場のように感じられることもあるかもしれません。

それ自体は仕方がないことです。

しかし、私たちは、選択する自由があります。心理学では、それを「責任」といいますが、これは一般で使われるような「責める」という意味ではありません。自分の可能性という意味です。

では、何を選択すればいいのか。

それが、「神についていく」こと、あるいは「愛」です。

これから述べることは大事なのでよく覚えておいてください。

この世界には愛しかありません。全ての物事は、①愛か、②愛を求める叫びです。

つまり、恐れは愛に解消されます

何が起ころうとも、愛情をもって考えることを選択するとき、人生は安らぎに満ちたものになります。これが、許しです。

反対に、愛に背を向けるとき、苦しみが始まるのです。

あなたは常に岐路にいて、選べます。どちらの人生を歩みますか。

2 愛は神である

神は,無条件の愛のエネルギーであり、慈悲であり、同情の想いであり、完全な受容です。

そして純粋に愛するためには、古い考え方を放棄しなければなりません。これが、「降伏」という概念です。

私たちは何であれ降伏することを失敗と捉えています。つまり、戦いに敗れたときに降伏するものだと思っています。

しかし、スピリチュアルな降伏は受動的ではありますが、弱いものではありません。逆に、強いものです。

それは、私たちの攻撃性に対してバランスをとってくれるものです。

攻撃性は悪いものではありません。創造性の核心ですから。

しかし、攻撃が暴力の動因ではなく調和の動因となるためには、攻撃性を愛によって和らげる必要があります。

神に降伏するというのは、手放してただ愛するということです。いかなる状況においても愛を優先すると判断することによって、神の力を現実化するのです。

私たちは、心を用いて神と共同創造を行う存在なのです。

☆所感

「降伏」という概念がでてきました。これは、簡単にいうと、「がんばらない」ということです。

世界は愛でできているんですから、その流れに乗っていれば勝手に愛に帰っていくんです。

その流れに乗ることを、選択し続けるだけです。

それは、本当は楽なことなのですが、「自分は絶対に悪くない、あいつのせいだ」あるいは「自分が悪い」と常に誰かを責めている私たちにとっては、難しいのです。

そこから自由になるのが、昨日お話した「責任」「許し」と言う概念です。

とても大切なことをお話しているので、もう一度復習してみてください。

3 愛だけが現実

『コース』はいいます。「愛と対極をなすものは恐れであるが、全てを包含するものに対極は存在しない」

恐れは、確かに存在しますが、それは究極的には愛に解消されます。

しかし、それは本来私達が何者であるのかという真実にとって変わるものではありません。

私たちが愛情をもって考えていないときには、幻覚を体験しているにすぎません。

私たちが抱く思いは、コンピューターに打ち込まれたデータのようなもので、あなたの人生というスクリーンに映し出されます。スクリーンに現れるものが気に入らなかったとき、スクリーンに近づいて消そうとしてもどうにもなりません。

「思い」が原因で、「体験」はその結果なのです。

そして、恐れに満ちた地獄の世界から、天国、すなわち愛に満ちた人生へのシフトが、「奇跡」です。

それは表面的な対処療法ではなく、根本的な原因療法です。

もし人生に現れた結果が気に入らないのならば、考えの性質を変えなければなりません。

☆所感

何か自分の思い通りにならなかったとき、私たちは周りを責めてしまいがちです。

たしかに、相手にも非があるかもしれません。

しかし、究極的には、あなたの考えがあなたの人生を創っているのです。

どんな出来事があろうと、愛に基づいて考えたとき、あなたの人生は天国になります。

自分にできることをして、成長し続けること。

ある出来事を楽しい学びの体験にするか、地獄の業火にするか。その選択はあなたに完全に任されています。

そして、前者を選ぶとき、あなたの成功は約束されています。もう、成功しているのですから。

第3章 あなた

1 完璧なあなた 

私たちは、神の子です。あなたは神がご自身を愛において延長拡大されたときの思いです。

それゆえ、私たちは、私たちで「ある」がゆえに価値があるのであって、私たちが「する」ことことゆえに価値があるのではありません。

あなたが創造以来付け足したものは、何であれ全て役に立ちません。

あなたは愛されていて、愛に値することを思い出すのは、傲慢(ごうまん)な事ではなく、謙虚な事なのです。

あなたがこれまでしたこと、あるいは、これからするであろうことが、髪の目においてあなたを損なうということはあり得ません。

☆所感

自己犠牲タイプ人は、自分に自信がなく、「要求に応えよう」「与えよう」と頑張ってしまい、燃え尽きてしまうことがあります。
しかし、私達は「ある」がゆえに価値があるのであって、「する」がゆえに価値があるのではありません。 ミケランジェロ仕事も、余分な大理石を、取り除くことでした。

以前の僕のコミュニケーションの「不自然さ」は、そのような緊張から出たものだったのでしょう。

T-ONE 「5days」ワークショップ体験記

リラックスして、あなたの中心にある価値を信じ、恐れを手放すのです。

恐れとは誤解であり、それを溶かしていくのがコミュニケーションであり、心理カウンセリングやセラピーです。
それはちょうど、条文の文言を判例が補完し、その集積が新たな法典として編纂されるという、法治主義における法のダイナミクスそのものです。
それによって見えるのは、全てとの繋がりであり、愛です。
そして、愛だけが真実なのですから、そこに留まること、選び続けることで成功が約束されます。

彫像は、すでに、大理石の中にあるのです。

2 聖なる心

私たちは矮小で分離した自分という概念が、自分そのものであると考えます。

しかし、心理学者のユングは、私たちの心は、奥深くで繋がっているとします(集合的無意識)。さらに、『コース』はこれを一歩進めて、私たちの心は同じであるといいます。

車輪の中心でありながら、そこから放射状に広がるスポークも、神であり、愛であり、キリストなのです。

「癒し」(ヒーリング)とは、そのキリストに焦点を合わせるということです。

私たちの人生においては、焦点を合わせたものが実現します。

傷やエゴを溶かし、愛を悟ること。

光に向かえば、闇は消えるのです。

☆所感

日常生活で、怒りが湧くことってありますよね。

たしかに、その人にも落ち度があるのかもしれません。

しかし、それもその人の恐れであり、傷からでたものだと考えることはできないでしょうか。

みんな傷ついています。あなたもですよね。

そのように考えると、その人の中心が見えてきて、自分と同じなんだと感じられます。

そのとき、その人の見え方が一変します。

全て、愛だったのだと。

3 エゴ

子どもの頃、私はよい子にしていなさい、と教えられました。これはもちろん、私たちはまだいい子になってはいない、ということを暗示しています。

私たちは本来、いい子であると教えられた人はあまりいません。

しかしそれは、私たちを育ててくれた親が悪魔のような存在だったからではありません。私たちと同じように育てられた人によって、彼らも育てられたのです。

なぜでしょうか。

それは、この世界の現実は厳しいからです。そういう人たちは、私たちにそのような社会で成功して欲しいと思ったのです。この世界と同じくらいに狂気を持たなければ、この世界ではやっていけない、ということです。

しかし奇妙なことに、このような考え方によって何かを学ぶということはなく、むしろ、力を自分自身から外部のものに移し替えてしまいました。

そして、私たちが学んだのは、恐れです。ありのままの自分では十分立派ではないという恐怖心です。

恐れが学びを促進することはありません。恐れは私たちを歪め、私たちの発育を阻害し、私たちをノイローゼにします。

愛が不在の中で、私たちはゆっくりと、崩壊のプロセスを開始したのです。

だから、愛は私たちにとって難しいのです。愛は私たちを圧倒しかねない虚空のように感じられます。愛は実際に、私たちの小さな自分、孤独な分離感を圧倒します。

私たちはこの分離感を本当の自分であると捉えているために、それがなくなってしまったら、自分は死んでしまうのではないかと感じるのです。

しかし、実際に死ぬのは怯えた心であり、それによって、私たちの内部にある愛が息をする機会を得ることができるのですが…

『奇跡のコース』によれば、エゴとは、以上述べたような、神及び他の人から自分は分離しているという最初の誤った信念に土台を置く、恐れに満ちた認識のネットワークのことをいいます。

それは私たち自身についての誤った信念であり、本来私たちが何であるかについての嘘です。

その嘘は私たちの強迫観念であり、その嘘を生きることは恐ろしいほどに不安であるにも関わらず、この分離を癒すことにどれほど私たちが抵抗するかには、驚くべきものがあります。

心が初めて愛から逸脱した瞬間、すなわち神の子が笑いを忘れた時から、幻想の世界が出現したのです。『コース』では、これを恐れへの迂回ないしは神からの分離と呼びます。

エゴには独自の似非の生命があり、生き残るために必死に戦います。私たちは何か新しいものを試みるよりも、既に知っている古いものにしがみつこうとします。

エゴは利己主義、貪欲、価値判断、狭い心の在り方などを教えてくれます。

でも、思い出してください。ここには、「私たち」が一人いるだけなのです。

☆所感

自分自身の力を外部に移し替えることを、心理学では「補償行為」といいます。本当の自分は十分価値がある存在ではない、そのままでは嫌われてしまうという恐れから、自分の力を封じ込め、外部の何かに依存してしまうのです。

そのような補償行為を生む恐れを罪悪感といい、多くは幼い頃の家族との関係の中で生じた心の傷と、その反動としての攻撃性により生じています。

その古傷を癒せていないまだと、成人してからの社会生活において関わるその家族と類似する性質を持つ人物にも攻撃性を発揮してしまいます(転移)。

そして、それは取りも直さず、そのような性質を持つ自分を攻撃することであり、自己いじめに他なりません。そのような他人と自己への憎しみを持った人が歩む人生は、地獄の業火に焼かれ続ける苦難の連続なのです。

あなたが自分の才能を発揮して、人と親密感をもった対等な関わりができるようになるには、あなたが「傷つけられた」と感じたその最初の人とあらゆるルートを駆使して対話し、彼または彼女がそのような行為にいたった背景を理解し、力に変えなければなりません。

それが「許し」であり、本来の自分を取り戻し、天国、すなわち愛に帰っていくことなのです。

その具体的なヒーリング手法を、「投影の取戻し」といいいます。

投影の取戻しについては↓記事を、

【嫌いな人が消える…だと!?】ビジョン心理学セミナー「成長の三角形モデル」体験記(後編:俺の許し)

 

転移とそれを解消することにより得られるリーダーシップについては、↓記事を参照してください。

https://domain-name-nayanda.com/?p=11562&preview=true

4 聖霊

心そのものは中立的なものです。それは神によって与えられた力であり、私たちの創造性です。そして、その創造性ををどういう方向に使うかは、私たち一人一人の責任に任されているのです。

とすれば、自分の思いに責任を持つとは、自分の人生に責任を持つということです。それは、神様に私たちの人生を救ってくださいと祈ることであり、神様に私たち自身の否定的な思いから救ってくださるようにと祈ることです。

神だけが存在し、それ以外のものは全て幻想なのですから、愛がないことによって生じる結果はエゴの幻覚の中で起きているに過ぎないということになります。

罪とは、エゴの幻想に基づく誤解のことであり、つまり愛のない認識のことです。このように、一応の定義は可能なのですが、罪と言うのは実際には起きていないのですから、神は私たちの罪に対して怒っているということはありません。

神は、私たちを罰したいのではなく、癒したいのです。そして、神が私たちを癒すとき、聖霊という名の意識の力を使います。

『コース』によれば、聖霊とは、「目覚めよ。そして喜びに溢れよ」という呼びかけのことであり、それは最初の恐れに満ちた想いが抱かれたその瞬間に、同時に創造されたものです。

神は、私たちが愛に戻っていくように強制することはできませんでした。なぜなら、愛は強制しないからです。

神は、強制の代わりに、選択肢を創造します。聖霊は、恐れに対する神のもう一つの選択肢です。

聖霊は、神と分離された子との永遠のコミュニケーションであり、偉大なる認識の変換機であり、「慰める者」です。

聖霊とは、私たちの中にある意思の力であり、私たちが意識的に依頼するときは常に、因果のレベルで私たちに協力して、私たちを地獄から救い出してくれます。聖霊への依頼が無駄になることはありません。

聖霊は神によって創造された現実であり、私たちのコンピューターに組み込まれている、救いのシステムだからです。

聖霊は異なった現実認識へと私たちを導いてくれます。それは、愛に基づいた認識です。私たちの認識を聖霊は正してくれますが、それは「贖い」(あがない)と呼ばれます。

聖霊は、私たちに思い出させてくれます。私たちが与えた愛はいかなる状況であっても実在するものであり、私たちが受け取った愛は実在するものである、ということを。

それ以外には、何も存在しません。この幻想から逃れ、内なる安らぎを得るために、いかなる状況においても愛だけが実在するということを思い出して下さい。

それ以外のものは全て間違いであり、存在しません。それは忘れなければなりません。そういうものは、意識的に手放さなければならないのです。

私たちが気楽に安住できる場所は、愛することが容易な、制限された領域です。聖霊の仕事はこのような場所を尊重することではなく、破壊することにあります。

どのような場所でも居心地が良いという体験ができるまでは、山頂には到達してないのです。愛は、無条件でなければ愛ではありません。私たちは、完ぺきな愛を体験するまでは、本来の自分を体験していないのです。

聖霊は、幻想の中に足を踏み入れ、私たちを幻想のかなたに連れ出してくれます。

聖霊は愛を活用して、さらなる愛を想像し、恐れに対しては「愛を求める叫び」であるとして反応します。

ホロコーストは、神の意思ではありませんでしたし、エイズもそうではありません。いずれも恐れの産物です。

しかしながら、聖霊をこのような状況に招きいれると、まさにそうした状況を地球上から根絶できるほどの愛のレベルへと私たちを成長させる理由ないし機会として活用します。

このような状況は、私たちがかつて愛していたレベルよりも、さらに深く愛するようにと私たちに挑戦状をたたきつけるのです。

☆所感

エゴに対する聖霊の概念について説明がなされている、重要箇所です。

僕には、愛へと戻るために、私たちの魂を取り巻く竜を破壊する、勇者のような存在に思えました。

あなたは、聖霊って何だとおもいますか?

5 光を得た存在

これまで地球上に存在した人の中には、心を聖霊によって完全に癒された人がいます。あるいは現在地球場に存在している人の中にも、いるかもしれません。

彼らは「贖い」を受け入れた人たちです。あらゆる宗教において、奇跡を行った聖人や預言者の話が語られています。

彼らは内なるキリストを現実化しました。恐れに満ちた想いが清められ、愛だけが心の中に残っているのです。このように心を清められた人びとが、「悟りを得た者」と呼ばれます。

彼らが放つ光は、理解を意味します。悟りを得た人は、理解しているのです。

したがって、彼らが持っているもので、私たちが持っていないものは、何もありません。彼らは内部に完璧な愛を持っていますが、私たちも持っています。

イエスと私たちに違いがどこにあるのかといえば、私たちはそれを否定する誘惑に駆られるということです。

『白雪姫』や『眠れる森の美女』といった物語りは、エゴと聖なる心の相互関係をたとえたものです。邪悪な継母はエゴであり、白雪姫、つまり私たちの内なるキリストを眠らせることはできますが、破壊することは決してできません。

神によって創造されたものは破壊不可能です。彼女にできる破壊的なことは何かといえば、私たちを魔法にかけることであり、美女を眠らせることです。

そして、妖精の物語では、必ず王子様が登場します。王子の口づけが私たちは本来何者かを思い出させ、なぜここにやってきたのかを思い出させてくれます。

理想の王子様は聖霊であり、彼は様々な外観や衣服をまとって登場し、愛情によって私たちの目を覚まします。

すべての希望が失われ、愛がついい勝利をおさめたかのように見えたその瞬間に、救世主が現れ私たちをその腕に抱いてくれるのです。

☆所感

聖霊の象徴として、王子様が登場しました。

女性はディズニーが好きな人が多いですが、それは無意識下で、今日述べたような「眠り」から覚ましてくれるストーリーを、男性に求めているからでしょう。

僕たちは彼女の眠れる美しさを観て、目覚めるよう励まし、しっかりとその腕に抱きしめなければなりません。

参考:ディズニー映画『眠れる森の美女』のあらすじをネタバレ&感想付き解説!登場人物&ストーリー!原作は怖い?CASTEL

第4章

「愛への帰還」第4章1 信頼

自然の法則のお話しでした。

神とは、慈悲に満ちた秩序であり、常に私たちを愛し、気にかけ、守ってくれています。

この宇宙を動かしている力を信じること。それが信頼です。

この法則を無視する人は、善良さが欠けている、というわけではありません。

ただ、知らないだけ。

そういう意識でいると、攻撃されたとしても、反撃ではなく赦そうという気持ちに、自然となれると思いました。

 

【「愛への帰還」第4章降伏 3結果を放棄する】

「降伏」とは、結果への執着を放棄することです。

神に降伏するとき、外面的な結果への執着を手放し、内面的にどういう事が起きるのかに対して、もっと深い関心を持つようになります。

いかなる状況でも、愛が唯一の目的であり、唯一の価値です。

僕は今T-ONEで試用期間中の、不安な身です。

採用されるのか、いつクビを切られるのか分からない。

だけど、結果は神のものであり、願うべきは、結果ではありません。

「神様、私にとって一番大切なことは、内なる心の安らぎです。
私は愛を体験したいと思います。
何がそれをもたらしてくれるか、私には分かりません。この状況が何をもたらすかは、あなたの手に委ねます。
あなたを信じます。あなたの意志が実現しますように。」

そして、委ねられたものは最も大切にされる」のです。

 

「愛への帰還」第4章降伏 4身を委ねた人生

『「身を任せる」とは、

世界と戦うことをやめ、そのかわりに、世界を愛するという決定をする事を意味します。

それは、苦痛からの穏やかな解放です。

しかし、解放とは、何かを突き破って飛び出す事ではなく、

《本来の私達の在り方に静かに溶解していくことです》』

『私たちに求められているのは、焦点を変えて、もっと優しい認識に切り替える事だけです。

神が必要としているのは、それだけです。

心から身を任せ、愛が何より大切である瞬間を体験した時、愛以外のものは、実際に重要でないことが分かります。』

第5章

第5章 奇跡 1 許し

「奇跡」とは、愛の表現として起こる、考え方のシフトです。

奇跡は心の力を解放して、癒しと訂正の過程へと向かわせます

この癒しは様々な形をとります。

心理的・情緒的な変化だけでなく、ときには、物質的変化として、肉体の癒しが起こります。

私たちが奇跡を求めるとき、私達は、内なる平和への回帰を探究しているのです。

そして、究極的に創造されたものすべて、心を通して表現されます。

世界を変えるための最大の道具は、世界についての私たちの心を変えることなのです。

私たちの自己認識が、私達の行動を決定し、それが結果として現実化します。

自分は矮小な人間だと考えればそうなりますし、反対に、無限の愛と力を人に与えることができる素晴らしい人間だと思えば、世界にそれを反映します。

愛情に満ちた想いだけを意識的に選択し、恐れに満ちた想いを手放していく。

それが「許し」です。

☆所感

罪と言う幻想を見通して、駆られらの横たわる無邪気さを見るように、心掛けてみてはいかがでしょうか。

まず、内的な心の平静がもたらされる のに気づくでししょう

それは必ず、外側でも奇跡をおこします。

第5章 奇跡 2 今に生きる

昨日は、奇跡について、愛の表現として起こる、考え方のシフトだといいました。

それは、時間という概念からすると、次のように定義しなおすことができます。

奇跡とは、過去においてやるべきであったこと、未来においてやるかもしれないことを考えることから、今この瞬間に何をしたいかを考えることです。

私たちが天才的な輝きを発揮する能力は、過去を忘れ、未来を忘れる能力とおなじものなのです。

「私は誤った決定を下したに違いない。なぜなら、私の心は安らかではない。私は自分でその決定を下したが、それと逆の決定も下すことができる。」

エゴは、現実についての認識を過去に起こったことに基づいて持ち、この認識を現在に持ち込み、そうすることにより、過去と同じような未来を創造します。

エゴは、上下に落差のある世界です。

これに対して、天国とは、変化を超越した現実を認識するということです。

非難の思いを持たずに現在を見るということ。

私たちが、聖霊が私のために神を選択するということを、許すのです。

奇跡は、物理法則を逆転します。

☆所感

「物理法則を逆転する」とは、どういうことでしょうか。

私が思うに、それは、過去のパターンを手放すということです。

そうすることにより、過去の数々の誤った決定が、すべて許されます。

そこで訪れるのが、心の平静です。

第5章 奇跡 3 復活

キリストは、十字架に磔にされた後、復活しましたが、これは私たちの癒しをどのように象徴するものなのでしょうか。

『コース』はこう言っています。聖書には深い眠りがアダムの上に落ちたと書いてあるが、アダムが目を覚ましたという言及はどこにもない。

つまり、これまでのところ、人類全体、地球全体規模での包括的な覚醒ないし再生は起きていない、ということです。

そして、私たち一人一人が目覚めることによってのみ、世界の目覚めは可能となるのです。

私たちは、自分が持っていないものを、人にあげることはできません。

そして、私たちが心がけなければならないのは、入ってくる霊力を強くすることではありません。

神の愛は非常な早さで入ってきており、それに対処するのが精いっぱいです。

私たちが気に掛けなければならないのは、それを受け止める準備をすることなのです。

神が電気であるとすれば、私たちは神によって灯される電球です。

電球のサイズや形、デザインは問題ではありません。大事なことはただ一つ、コンセントに接続することです。

つまり、神に奉仕するために自分が使われることに意欲を持つことなのです。

それが、罪を許すということであり、復活なのです。

☆所感

世界は私たちの反映です。

私たち一人一人が復活することで、世界の復活は可能となるのです。

イエスに続きましょう。それが、信仰です。

第5章 奇跡 4 宇宙の成人期

 この世界におけるあらゆるシステムが、社会的にも、政治的にも、経済的にも、生態系的にも、私たちの人間の残酷さの重荷に耐えかねて、崩壊しはじめています。

この方向を変えるには、これよりも強い反対勢力で立ち向かうしかありません。奇跡こそ、それです。

愛が臨界点に達するとき、すなわち十分な数の人が奇跡に基づいた心を持つようになったとき、世界は大きな変化を遂げることになります。

あらゆる物語りにおいて、神は、話が悲劇のクライマックスに達したときにあらわれ、救いをもたらします。

これは、神がサディスティックなユーモアのセンスを持っている、というわけではありません。

神の登場にそれだけ時間がかかるのは、そういう状況になるまで私たちは神について考えてみようともしないからなのです。

これまで私たちは、神を待っていたのが私たちだと思っていましたが、実は、神が私たちを待っていたのです。

☆所感

多くの人は日常的なトラブルに見舞われながら、にっちもさっちもいかない、という状況になって初めて、過ちに気づくのです。

それは、まだ人類の「愛」への信仰がうすいということです。つまり一人一人の癒しが、「臨界点」まで達していないのです。

私たちがすべきことは、自らがその勢力の一員となることです。それが、周囲に伝播します。

☆明日は、「第5章 奇跡 5 再生」を読みます。それでは、今日も顔晴(がんば)っていきましょう

第5章 奇跡 5 再生

「私たちは神にあまり頼み事をしない。いや、実際のところ、神への依頼が少なすぎる」と『コース』はいいます。

道を見失ってしまったと感じる時、気が違ってしまったと感じる時、恐れを感じる時、そんな時はいつでも神の助けを求めさえすればよいのです。

神の助けは、私たちが期待するような形ではこないかもしれません。

しかし、助けは必ずやってきます。私たちがどのように感じるかで、助けを認知することができます。どんなに辛いことの真っ只中であったとしても、心の安らぎを感じるはずです。

『コース』は、私たちは数多くの問題を抱えていると思っているが、実は問題は一つしかないともいっています。

愛を否定することが唯一の問題であり、愛を受容することが唯一の答えです。

私たちがしなければいけないことはただ一つ、奇跡が起きることを依頼し、奇跡に抵抗するのではなく、奇跡が起きることを許してあげることなのです。

☆所感

私たちには、私たちが認識しているより遥かに多くの助けが訪れているのかもしれません。

それを受け入れることができれば、私たちの人生は大きく転換するのかもしれませんね。

第6章

 

【第6章 様々な関係 1 神聖な出会い

『コース』は言っています。「誰であれ、人と会うときには、それは神聖な出会いであることを思い出しなさい。あなたがその人を見るように、あなたはあなた自身を見る」

天国とは状態でも場所でも、なく、完ぺきな一体性の認識です。

彼らの罪に注目すれば、自己嫌悪の釘を自らの皮膚に深く打ち込むことになります。

かれらの無邪気さに注目すれば、私たちは解放されます。

☆所感

自分と他者が一体であるならば、相手は自分の投影であり、自分は相手の投影でもあるのです。

それが、シンクロニシティです。

ビジョン心理学と錬金術から【愛とシンクロニシティの関係】について考えよう!

 

彼らの罪ばかりではなく、彼らの真ん中にあるハイアーマインド(本質)を見るように心がけることは、あなた自身を許すことでもあるのです。

第6章 様々な関係 2 人との関わりにおける許し

私たちを怒らせるようなことを何もしたことがない人を許すのは感嘆です。

しかし、私たちを怒らせる人は、私たちの最も大切な先生です。

他の人たちに対する恨みを手放す、すなわち、許すという決定は、自分自身の本当の姿をありのままに見るという決定です。

なぜなら、他の人の完璧さに対して私たちを盲目にする闇は、私たち自身の完璧さに対しても私たちを盲目にするのですから。

私たちはだいたいにおいて、自分自身が間違っているときは、それを自覚しています。どうすれば良い方向にもっていくかが分かっていないだけなのです。

その人に必要なのは、攻撃ではなく、助けなのです。

☆所感

「あの人はどのような助けが必要なのだろう」と見れたとき、その人に対する心と対応は変わるのでしょう。

そうすれば、結果もおのずと変わってきます。

第6章 3 価値判断を手放す

「神の子は罪を犯すことはできませんが、間違いを犯すことはあります。」

人の全ての行為は、愛であるか、それとも愛を求める叫びです。

誰かが愛情をもって私たちに接するならば、それに対する反応はもちろん愛情です。

恐怖の心で接してきたならば、その行動は愛を求める叫びであるとみるべきです。

怒鳴りつけられたり、嘘をついたり、盗んだり…

そのような私たちの過ちに対して神が示す態度は、それを癒してあげたいという願望です。

☆所感

相手の攻撃は、恐怖から出たものであり、それは愛を求める叫びです。

攻撃を受けたあなたも悲しいでしょう。まず、それを受け入れて下さい。

そのうえで、その相手のどこに「さみしさ」「かなしさ」があるのか…

そう想えた時、あなたとその相手との距離は、自ずと縮まっているでしょう。

 

第6章 4 愛するという選択

私たちはある人が愛するに値するかどうかを知る程度まで理解することができると考えていますが、実際には、その人を愛さない限り理解することはできません。

それは、私たちの選択の責任なのです。

苦しみは外部の状況で決定されるのではなく、むしろ私たちが他の人に対して拒絶する愛情から生まれます。

奇跡は、どんな状況でも常に可能です。なぜなら、誰も私たち自身の体験をどのように解釈するかを私たちに変わって決定することはできないからです。

『コース』は私たちの怒りをオブラートに包んで、そんなものは存在しないと言っているのではなありません。心理的に不健全なものは、霊的にも不健全です。

エゴの感情を解放するためには、それを自覚しなければなりません。

「聖霊はあなたが隠し続けるものに光を当てて解消することはできない。というのは、あなたはそれを聖霊に依頼しておりらず、聖霊はそれをあなたから奪うことはできないからである」

☆所感

怒りを感じない人はいません。大事なのは、どのように自分が選択するの、意志の力です。

「この状況を異なった目で見させてください」

そう、あなたの聖霊に依頼して見てください。

第6章5 教えのレベル

『コース』によれば、人間関係には3つのレベルがあるとされています。

①私たちが「何気ない出会い」であると考えるもので、例えばエレベーターの中で会う見知らぬ人同士がこれです。

②もっと持続的で、二人の人間がかなり強烈に、互いに教え合い学びあい、それから別れていくように思われる関係です

③一度形成されると一生涯継続する関係です。

これらに共通するのは、すべて「学ぶため」ということです。

①では、様々なレベルの人に共通して出てくる問題となる傷を。②では、それより深い傷であり、肉艇的に近くにいることが二人の最も高度な教えと学びのために働かなくなった場合には、その課題は二人を別れさせることを経験させるでしょう。③は、両者の教えと学びのバランスが実際に完璧な段階に同時に到達したことを暗示しています。

この関係においては、一生涯、愛情をもって共に生きていく人である場合もあれば、長い間あるいは一生、バラの棘のような人であるかもしれません。

そういう人は、私たち自身の愛する能力の限界を反射してくれる人であり、意識的であれ無意識的であれ、私たちが恐れていることを診させてくれる人なのです。

この関係を持つ二人は、癒しを最も必要としている場所をお互いに教え合い、お互いの癒しを助けるために人生を共有します。

☆所感

「棘のある人」を置いておく寛容さを持ちたい。

第6章6 特別な関係

「特別な関係」というと、何か素晴らしいものだという意味を暗示しますが、『コース』の観点からすると、特別であることは「異なる」ことを意味し、したがって分離を意味し、それは聖霊の特徴ではなくエゴの特徴であるとされます。

神の愛は全ての人の愛です。だからといって、人間関係の形態が全ての人と同じであるということではなく、全ての人間関係の中に同じ内容を探究するという意味です。

形態や肉体の変化を超越した兄弟の愛、友情がそれです。

特別な関係は私たちを結び合わせる代わりに、私たちを分離させようとするエゴの手段です。自分の中には何もないと信じているために、エゴは常に「何を手に入れることができるだろう?」と問い続けます。

それに対し、聖霊は「私は何を与えることができるだろうか?」と問います。

私たちは、実際はこのままで完全であり、完璧なのです。

☆所感

何かを埋め合わせるために人と交わるのは、特別な関係です。

それは、傷を前提としているからです。

しかし、癒しによって、傷は存在しないのだとわかります。

そのままでいいのです。

それによって結ばれる関係が、明日ご紹介する、「神聖な関係」です。

第6章 7 神聖な関係

「神聖な関係」とは、特別な関係が変容を遂げて新たな目で見られるようになった関係をいいます。

特別な関係においては、エゴが私たちの関係を導き、私たちは恐れにおののきながら出会います。

他方、神聖な関係は、聖霊が愛の目的について私たちの心の在り様を変えたために、私たちは心を開いて出会います。

特別な関係の目的は、私たちに自分自身を憎むことを教えることです。

他方、神聖な関係の目的は、私たちの自己憎悪を癒すことです。

特別な関係においては、私たちは、自分たちの弱さを隠そうとします。

他方、神聖な関係においては、私たちには誰でも癒されていないところがあり、他の人と一緒になることの目的はそれを許し、癒すことにあると理解されています。

私たちは、楽に逃げようとしてしまいます。

つまり、相手がすべてこちらの望む通りに行動し、決してこちらの痛いところを突いて怒らせたりすることはなく、不快に感じさせたりすることは決してない関係です。

しかし、関係が私たちの成長をサポートするためにあるとすれば、多くの場合、そのようなことをする必要があります。

限りある寛大さしかない自分、無条件に愛することができないでいる自分を、関係の中で強制的に改めなければなりません。

関係における相手がどのような行動をとっても、微動だにしないようになって初めて、私たちは聖霊と一体になったといえるのです。

そのための祈りは、次のようなものです。

「神様、どうぞ私の目から鱗を取り去ってください。私の兄弟の美しさが見えるように助けてください。」

☆所感

神聖な関係は、恐れではなく、進化成長に必要な関係です。

それは、t自分を隠すことではなく、自分の弱さを出していく過程です。

真実な自分は、恐くはありません。

そこには、つながり、すなわち愛と光があります。

 

第6章 8 ロマンチックな愛

『コーズ』はこういいます。

「愛に異なったカテゴリーはありません。母親と子供の愛の愛は一つの愛で、恋人どうしの愛は別な愛で、友達同士の愛はまた別の愛であるということはありません。実在する愛はすべての関係の核心に横たわる愛です。それは神の愛であり、形や状況によって変わることはありません」

「理想的なパートナー」という神話に私たちが弱いのは、ロマンチックな愛を美化しすぎるのが原因です。

エゴはロマンチックな愛を特別な目的のために利用して、それを過度に評価することによって関係を危機に陥れます。

友情とロマンスの関係は、ちょうど、茎の長いバラのようです。茎が友情で、花がロマンスです。

あらゆる人間関係において最も生産的な反応は、私にできる最高のレベルで、その関係の中での自分の役割を果たすことにコミットすることであり、その中で、神は私たちの中にある、癒す必要のある場所に働きかける機会を提供してくれる人を贈ってくれるのです。

そうであるならば、祈るべきは、「神様、どうぞ私のもとに素晴らしいパートナーを贈ってください」ではなく、「神様、どうぞ私は素晴らしい人間であることを自覚させてください」です。

客観的に美しい人はいません。

私たちが誰もが持っている、キラキラとした輝きの潜在的可能性を顕在化する人と、顕在化しない人がいるだけの話です。

そのような素晴らしい人に出会うときに備え、私たちは今対処できる問題に、対処しておかなければならないのです。

深遠な関係に向けて準備するために自分自身を磨くことは、その人が可能性として持っている「最善の自分」になれるように、私たちが「どうすればサポートできるか」を学ぶことでもあります。

それぞれが自分自身の内部にある最高の部分にアクセスするのを助け合うのが、パートナーです。

☆所感

本章は愛の構造について解説されている、重要なところです。

すなわち、普遍的な「友愛」と、そのベースの上にある「パートナー」の関係が述べられています。

自分磨きとは、自分自身傷を癒していくことであり、誤解を解いていくことであり、許すことであり、OKを出すことであり、それを他人にもできるようになっていくことです。

そうする中で、お互いの最も深いところに向かい合う、パートナーと出会えるでしょう。

☆第6章 9 恐れを捨てる

良い関係というのは、いつもクリスタルや虹のようにキラキラしているわけではありません。

それは一種の出産であり、痛みが伴うものであり、多くの場合、めちゃくちゃなものです。

私たちが人と関係を持つのは、お互いに真剣にやるべき仕事があるからです。

本当の仕事は、苛酷なまでの正直さがあってはじめて可能になります。

私たちは皆、それを求めていますが、正直に自分の気持ちを伝えることを恐れています。

その理由は、相手の人が本当の自分を知ったならば、自分のもとを去っていくだろうと恐れているからです。

二人のために、ケンカをするための安全なスペースがあるということは、大切なことです。

怒りを否定する必要はありません。奇跡に繋がる態度は、「怒っていないふり」をするのではなく、「怒ってはいるけど、怒りを手放す気持ちは十分にあります。神様、私に見えていないことをどうぞ見せてください」という態度です。

それは、ケンカではなく、「情熱的な議論」と言い換えるべきでしょう。

☆所感

「情熱的な議論」は、ただの感情のぶつけ合いは人格攻撃ではありません。

愛とは、相手と自分を高めるために、もっと知り合おうという試みです。

また、相手に嫌わることを恐れて自分の正直な気持ちを表現しないのは、愛ではなく、恐れです。

愛には、勇気と思いやりがあり、それは真剣さや、真摯さといった態度であれわれます。それが、愛なのです。

第6章 10 自分自身に働きかける

『コース』はいいます。

「いかなる状況であれ、欠けているものがあるとすれば、それはあなたが与えていないものである」

だけど、こう言いたくなりますね。

「この問題の90%は相手の問題だ」

いいでしょう。たしかに、相手にも問題があるかもしれません。

しかし、あなたにも、10%の問題があるのです。

相手に過ちがあるとすれば、それを正すのは、相手の責任です。私たちは、その人との関係から最大限の教訓を学ぶために、自分自身の問題に焦点を絞らなければなりません。

私たちがもつ最大の贈り物は、自分自身を向上させ続けることです。

そして、私たちは私たちの仲間たちに、自分が持っていないものを与えることはできないのです。

☆所感

相手を全面的に悪者にすること、それとは反対に、自分を全面的に悪者にすること、どちらも極端です。

相手の問題は相手の責任であり、自分の問題は自分の責任です。

私たちにできることは、そのときにおいて自分ができることをすることです。

それは、相手の問題解決のサポートをすること、そしてそこから得られた教訓を活かし、自分の問題を改善していくことです

第6章 11 閉ざされた心

私たちは、「私たちを欲しがらない人」に惹かれてしまうことは、ないでしょうか?

もしも私が自分は立派な人間ではないと信じていたとすれば、私は立派な人間であると信じている人を自分の人生に受け入れるのに、困難を覚えるでしょう。

実は、私たちが入手可能は人こそ、危険な人なのです。

なぜなら、そのような人は、本当の親密さを持つという可能性で、私たちに迫るからです。

その人は、暴力ではなく愛によって、私たちが築いた防御の壁を打ち破るかもしれないのです。

☆所感

自分を大切にしない人を「引き寄せてしまう」人は、実はそういう人「惹かれてしまう」というところがあるのかもしれません。

それは、あなたのエゴの誘惑です。

あなたは、あたなを大切にしてくる人のことろに行って、いいのです。

☆第6章 12 傷の癒し

私たちが他人に対して築いた壁は、私たちが心の傷ついた場所を守ろうとする努力の現れです。

あなたは、いつかどこかで、心を開いたことが原因で苦痛を味わったり、辱めをうけたのかもしれません。

あなたは、そのような屈辱から、絶対に自分を守ろうと心に決めたのです。

しかし、それにも問題が生じます。その問題とは、私たちの壁が、私たちが避けようとしているまさにそのものを創作している、ということです。

『コース』によれば、私たちは見る前に何を見るかを既に決定しているといいます。私たちは、その人そのものではなく、自分が過去の体験から引きずっている「影の人物」を投影しているのです。

そして、私たちはそういう人に対して、ニーズを抱きます。

しかし、人はニーズには耐えられないので、それを拒絶し、距離を取ります。

そうすると、私たちの心の傷は、再び現実化してしまうのです。

癒しとは、①私がそういう感情を体験したことを知ること、そして、②現在とは何の関係もないことを知ることです。

☆所感

「相手は自分が思っている通りに自分を扱う」という言葉がありますが、そのメカニズムはこのようなものなのですね。

完璧な人はいません。私たちがそれを探し、相手の至らないところを見ようとすると、必ずそれを見つけるでしょう。

しかし、私たちは、すべからくもがいて、努力しているのです。

そういう「伸びしろ」に着目すると、あなたと共に癒し合う、パートナーが見つかるかもしれません。

☆第6章 13 私たちに気持ちを変える

人と関係を持つことの目的が癒されることになるとするならば、そして癒しは傷をさらけ出したときにはじめて可能になるとするならば、エゴは私たちに非常に厳しいジレンマで迫ってきます。

それは、「私たちにとって完璧な人」が登場するのを待たせるということです。

しかし、仮にあなたにとって完璧な人がどこかにいるとしたら、その人はあなたにデートを申し込むのでしょうか。

別な人の中にあなたが欲しい完璧さを探し求めるのは煙幕であって、私たちは自分自身の中の完璧さを発達させることによって、その人の完璧な部分と出会うのです。

それは、癒すという決断、変わるという決断、人生に対して新しい台詞を選択するという決断です。

なぜなら、聖霊には、自由意思を侵害することはできないからです。

☆所感

くり返しは、教訓を学ぶために起こります。

それは、①自分の誤解を癒すため(愛されていた)、②あなたの環境を変えるため(愛されければなれない)に起こります。

変わると決断し、傷をさらけ出し、癒されたあなたは、そんな完璧なあなたを必要としている環境に、自然と導かれて行きます。

第6章 14 許しの行使

あなたは、許すということは危険な立場をとることであり、不公平な犠牲を払う結果になると思っていませんか?

たしかに、不当な扱いを受けてそれを甘受するのは、自己犠牲です。

しかし、許しとはそういう意味ではなく、威厳と愛をもって、イエスといい、またノーということです。

あなたの尊厳を守るためにノーということは、自分に勝利であるばかりではなく、相手にとって、望めば教訓を得られるという意味で、勝利です。

愛は弱さでなく、力です。

☆所感

たとえ不当な扱いをうけても、相手は完璧な人間であることに変わりはありません。

その曇りをとるきっかけを、愛をもって与えましょう。

あなたは、いつでも愛を選択することができるのです。

第6章 15 愛を伝える

『コース』はいいます。

「彼のやっていることは意味をなさないからもしれない。…しかし、それでもあなたのやるべきことは、彼は正しいと彼に告げることである。彼が思料を欠いた話をしているならば、彼は別なレベルで訂正を必要としている。というのは、彼は別のレベルで過ちを犯しているからである。しかし、彼はそれでも正しい。なぜなら、彼は神の子であるから」

私たちの欠点をいつもあげつらう人は、私たちを助けてくれるどころか、恥ずかしさと罪の意識で私たちを委縮させてしまいます。

反対に、私たちを受け入れてくれる人は、私たちに自分も捨てたものではない、リラックスしてもいんだと感じさせてくれ、そこから自分の歩むべき道を発見することが可能になります。

そして、私たちが言葉を発するとき、鍵となるのは言葉ではなく、その背後にある態度です。心は一つなのですから、私たちはいつもみんなでテレパシーでコミュニケーションをしているのです。

☆所感

あなたは傷つけた相手の発する言葉の奥にある、その人の傷はなんなのでしょうか?

そのような大きな器で、物事を拾っていきたいですね。

第6章 16 コミットメント

『コース』によれば、私たちは全ての関係において完全なコミットメントを持つべきであり、それらの関係がお互いに競合することは決してない、といいます。

どういうことでしょうか?

人との関係の中で学べる教訓は、その関係にしっかりと留まって、2人で問題を解決するという場合もあります。

しかし場合によっては、自分のためにならない現在の状況から抜け出すことにある場合もあります。

人間関係における別れは、その人との人間関係の別の章が始まったという意味にすぎません。「私はあなたをあまりにも愛しているから、あなたがいる必要のあるところに行けるよう、私はあなたを解放します」

また、私たちが嫉妬に駆られて、今のパートナーのかつてのパートナー(元彼、元カノ)との癒しをサポートしないのならば、悲しみを体験することになるでしょう。

もしも私たちが誰かに苦しみを与えれば、その苦しみは私たちのところに帰ってきます。他方、だれかを助けてあげれば、必ずいつか誰かが同じことを私たちのためにしてくれます。

愛とは、中立ではなく、その状況に関係している人が皆、心の安らぎを達成できるように、コミットすることです。

☆所感

全ての人を同じように扱うことはできません。それは愛ではありません。

私たちの人間関係関係には、近づいた方がいい人、距離を置いた方がいい人、さまざまな距離感のグラデーションがあります。

しかし、愛は一つです。

どのような関係を取るか、その決断は、自分を含めた全体の最善を祈ることなのです。

第6章 17 関係の中の信頼

友達に裏切られたり、騙されたり、ウソをつかれたとき、自分を守り、逆襲したいという誘惑は、実に強いものです。

しかし、『コース』はこう言います。「無防備な態度にこそ安全がある」

私たちの内なるキリストは、どのような攻撃にも対処することができます。というのも、人は恐れによって影響を受けるという信念があるために、影響を受けるからです。

攻撃に対する防御は、攻撃をしている人が力を持っていることに同意を示すことであり、その結果、恐れの体験は、現実になります。

私たちが何か大切なものを失ったとき、裏切りにあったとき、危機の真っ只中にいるとき、「静かにして、自らがただ在ることを知りなさい」「真実を破壊することはできません」と『コース』はいいます。

☆所感

防御は、「何か」から守るべきものがあるという承認です。

あなたのその防御は、あなた自身が、あなたに責めるべきもの(不完全性)があることを承認していることになるのです。

それは、守らなくても大丈夫です

あなたはそのままで、完璧です

第6章 18 結婚

光に満ちた結婚とは、神に対する奉仕を共通の目的とする二人が、お互いの成長の過程にコミットすることです。

結婚という関係は、お互いが怒り狂い、怒鳴り合っても、その部屋からでていかないことにコミットすることです。

自分に本当に忠実である場合には、心が本当に乱れていることが表面化したりするものです。

しかし、結婚等関係ではそれをしても安全です。誰もその場を去らないからです。

結婚は、人間の男女への贈り物です。それはまた、人間から神への解けされるべき贈り物でもあります。

そして、神への贈り物は、全てのひとのために与えられるものでもありまs。結婚は、世界全体への祝福なのです。

なぜなら、結婚とは、2人の人間が一人であった場合よりっも、より大きくなることだからです。

癒された二人の存在は、全世界を癒します

☆所感

結婚とは、出ていかないことをコミットすることです。

しかし、それではなぜ離婚という制度があるのでしょうか?

どんなときに、2人は分かれるべきなのか。

結婚がより大きくなること、であるならば、きっと、別れた方がより大きくなれる場合でしょう。

その人を愛するがゆえに、人は分かれるのです。

第6章 19 両親を、友人を、そして自分自身を許す

私たちの両親を許さずして、意識が目覚めることは不可能です。

母親大人の女性の主要なイメージを象徴する存在であり、父親は大人の男性の主要なイメージを象徴する存在です。

許しこそが、地獄を抜け出すための唯一のみちです。

許しの対象が慮審であれ、誰か特別な人であれ、自分であれ、心の法則は同じです。

明日るうとき、私たちは苦しみから解放され、愛を否定するとき、私たちは苦しみの中に留まることになります。

瞬間瞬間において、私たちは愛を放射するか、それとも恐れを投影するかを選択しています。

今の世界は、恐れによって体系づけられたピラミッドです。機能障害を起こしています。

しかし、癒しは、あなたが生きている瞬間瞬間の中で、まず自分から始めることはできます

マザーテレサは、いいました。

「偉大な行為というものはない。あるのは、偉大な愛が込められた小さな行為だけである」

私たちは恐れを持っている結果、それが様々な結果であらわれてきます。

しかし、誰でも全く同じテクニックによって救われます

私たちの心を救い、そして私たちの生命をお救い下さいと、神に祈るのです。

☆所感

今の世界は、恐れによって体系づけられたピラミッドです

恐れを利用しコントロールしてきます

では、恐れコントロールするには、どうすればいいでしょうか?

知ることです

その人を知れば、その人の行為もわかります

自分の感覚を信じ、権威や評価の向こう側を、見通してください

第7章 仕事

第7章仕事 1 キャリアを委ねる

成功とは、自分の才能や能力が人の役に立つ形で活用されたと感じながら、夜、眠りにつくことです。

あなたが誰であるか、なぜ、ここにやってきたのか、あなたは神の子でこあると、そしてあなたがここにやってきたのは、癒し癒されるためであることを知るのは、あなたが「何をしたいか」を知るよりもずっと重要です。

あなたが聞くべき質問は、 「どんなことであれ、何かをやるとき、どのようにそれをやればいいのでしょうか」という質問です。

これに対する答えは、「親切に」です。

普通、人は仕事と親切を結びつけることをしないのかもしれません。今は、仕事をお金稼ぎの手段とみなされるようにしてしまったからです。

しかし、私たちはただお金を稼ぐために働くのではありません。この地球に愛を注入するために、働くのです。

私たち一人一人が神の救済計画の中で、果たすべき役割を担っています。

『コース』は、「聖霊が私たちに任務を課すだけで、それを達成する手段を提供しないとすれば、それは理にかなったことだろうか」と問いかけます。

自分で計画を立てることを避け、そのかわりに神に計画を委ねるようにしてください。

あなたにやりたくて仕方がないことがあるとすれば、それは神があなたにしてほしいと願っている貢献です。

私たちが救済されるために秘訣は、目的の意識を転換することです。

あなたのリソースの全てを、世界を癒すために手段として使うことです。

☆所感

あなたの才能や世に溢れる知識をどこにつかうのか、その目的意識が大切です。

世の中に多くの誘惑があります。

エゴに惑わされず、まっすぐ、神を信じて下さい。

第7章仕事 2 神の意思

よく、神への奉仕と自分が幸せになることは、両立しないと考える人がいます。

しかし、それは、私たちが本来どれほど素晴らしい存在であるかという記憶を犠牲にし、重要な任務を果たすためにこの世にやってきたという記憶を犠牲にする人生です。

神は犠牲を要求しません。

「神の前にあっては謙虚であれ、しかし、神においては偉大であれ」

これを覚えていれば、私たちは無邪気さと繋がっていることができます。無邪気さがある限り、その力が私たちを通って流れていきます。

私たちはこれまで、演技を学ぶためにあまりにも多くの時間を費やしてきました。

私たちは、自分が本来持っている、表現すべき究極の真実を、目的としなければなりません。

唯一のよろこびは、神の意思を実行することにあります。

☆所感

あなたの周りの人の中に、苦しんでいる人はいませんか。

あなたの才能で、助けられる人はいませんか。

その人を助け、そしてそれにより自分をも助けるならば、それが最高の仕事だといえるでしょう。

【第7章3 個人の力】

素晴らしいキャリアを下さいと神様に依頼するのではなく、あなた自身の内なる素晴らしさを見せて下さいと依頼することです。

世に「カリスマ」と言われる人々は、その内なるエネルギーに覚醒したことを意味します。もともと、カリスマとは、宗教的な用語で「霊に属する」とぃう意味なのです。

よく、「社会的に成功を収めてお金がたくさん入ってから、世間の役に立つつもりだ」という人がいますが、これはエゴの遅延戦術です。

まだ自分は成功していないと思っても、世界の癒しのために仕事を捧げることはできます。そして、その瞬間から、キャリアは飛躍を開始するのです。

あなたは神の代理人です。

リラックスして、心理的にも、感情的にも、どうしてもやりたいという深い欲求を感じることを、やるべきです。

☆所感

自分の個人の力を発揮すること、や、どうしてもやりたいという欲求に向かおうとすることを全ての指標としたときから、私たちのキャリアは創られ始めます。

今から始めましょう。楽しいですよ。

【第7章4 お金】

『コース』はいいます。

「まず、最初に神の国を求めれば、お金は来るべきときにやってきます」

「あなたが大好きなことをやりなさい。あなたの心が喜びのあまり歌を口ずさみたくなるようなことをやりなさい。決して、お金のためにやってはいけません。」

「お金を稼ぐために仕事にでかけるのではなく、喜びを広めるために仕事にでかけるのです」

人々があなたのビジネスの場所にやってくるのは、あなたにお金を儲けさせるためではありません。あなたが彼らに愛を与えることができるように、あなたのところに派遣されてくるのです。

したがって、あなたがやるべきことは、彼らに「気に入って」もらうことではありません。

私たちのキャリアの目的が、「神の愛を伝える」ことであれば、私はただそこに行き、心を開き、脳を働かせ、口を開くだけでいいのです。

☆所感

「神の愛を伝える」ことは、決して、自分勝手でよいという意味ではありません。

お客様のことを考えることは大事。

しかし、あなたの使命を折って、お客様に合わせることはありません。

あくまでも、あなたの大好きな事をやり、それを求めているお客様に、提供する。

来てくださったお客様を祝福しましょう。あなたは、教会なのです。

その安らかな雰囲気に、人は引き寄せられます。

第7章5聖職

私たちをスターにするのは、私たちの謙虚な態度であり、奉仕したいという願望です。

したがって、豊かなキャリアと実現するために最も強烈な祈りの言葉は、「神様、どうぞ私をお使い下さい」です。

愛のない所に喜んで愛を提供しようとすると、私たちの奥深いところから新しいエネルギーがあふれ出てきます。

そこで何をなすべきかについて、思い悩む必要はありません。神様があなたに教えてくれます。

著者の演劇の恩師は、引退間近、著者に演劇の極意を伝授してくれました。

  1. 舞台に上がる前に、個人的な問題を全て忘れること
  2. 演劇の素材に正直かつ誠意をもって接し、飾ることをしない
  3. 観客が何人いようが、常に全力投球する

そして、創造的な仕事によって得られる最大のご褒美は、創造的であることの喜びです。

人をスターにするのは、目標そのものではなく、目標を達成するまでのプロセスなのです。

☆所感

あなたの望む、その職業はあなたの目的ではありません。

あなたがその職業に惹かれるのは、その職業自体ではなく、自分自身の人生に何か素晴らしいものを創作したいと切に願っているからです。

あなたが本当のスターになるまで、スターの資質を磨かなければ、誰もあなたのスターの資質によって心を打たれることはありません。

結果ではなく、「在り方」そこに情熱と魅力が生まれ、そこに結果がついてくるのです。

第7章 6 新しい心、新しい仕事

エゴはこういいます。

「あなたの価値はあなたがどんな資格を持っているかに基づいている。いい仕事につくには、博士号かそれに匹敵するような資格が必要だよ」

しかし、最も聡明な人々は、学校でより、人生によって教育を受けた人々です。私たちの社会にはありとあらゆる体験をした才能に恵まれた人々がたくさんいますが、とくにこれといった資格はないかもしれません。

そのような人たちが達成したのは、主に内面的な達成です。

社会が健全に機能するためには、ゼネラリスト(全体的)な見方も、スペシャリスト(専門的)な見方も、どちらも必要です。

そして、前者は色々な場所で色々な経験をしていますが、それらを合わせても博士号にはなりません。

しかし、色々と面白い体験をしているがために、人間として面白いことは確かです。

究極的には、この世界で私たちが効率的に機能するかどうかを決定するのは、資格ではなく、より高い目的にコミットしているかどうかです。

なぜ、いま私たちが地球にいるのでしょうか?

神に対して私たちが捧げることができる最大の贈り物は、神への献身です。

☆所感

より高い目的にコミットしていれば、他人の「こうした方がいい」という意見よりも、色々な体験をする必要があるときがあります。

自分の興味関心と、「大好き」に身を委ねてみてください。

きっと、祝福された、輝く人生になるでしょう。

☆第7章 7 目標

『コース』は魔法と奇跡の違いについて説明しています。

魔法とは、私たちが望む結果に心の照準を合わせることです。これは、神様にあなたの「買い物リスト」を渡すことで、私たちが「何をしてほしいか」を告げるというやり方です。

他方、「奇跡」は、手に入れる考え方から与える考え方への転換を意味します。

何かを手に入れたいという欲望は、今の自分は十分ではないという核心的な信念を反映しています。

そして、自分に欠けた所があると信じている限り、自分のまわりに欠乏を創作し続けることになります。

なぜなら、それが私たちの「思い」の基礎をなしているからです。

手に入れたいと望む代わりに与えたいと望むとき、私たちの核心になる信念は、自分は十分持っているから人に与えてもよい、となります。

そして、心はその核心的な信念を手掛かりにして、それを反映する状況を見事に作り出すのです。

奇跡を行う人にとっての、あらゆる状況における目標は、心の平和です。幸せそのものを目標にして、どうすれば幸せになれるかについての自分の考えを放棄します。

神を信頼することです。奇跡は、心から信頼することが土台となります。私たちの感情は、思いを土台にしているのです。

神様の糸が私たちが幸せになることであることがわかれば、神の意図が実現すること以外、何も祈る必要はないことがわかります。

☆所感

私たちは「思い」→「感情」→「行動」となってこの世に実現しています。

その起点である「思い」に欠乏があれば、実現するものも欠乏なのです。

私たちは既に神に愛され、与えられています。その与えらえているものを与えたい。そして、もっと自分の核心に近づいていき、神の栄光を実現したい。

それが、奇跡を起こす考え方です。

第7章 8 神の計画

あなたは出世したいですか?

急いで出世の階段を駆け上れば、それは実現すると思っているかもしれません。

しかし、あなたは愛を広めれば自然に出世階段を上っていくということに気づいていないのです。

「神の意思が実現しますように」と祈ることは、「私が成りえる最高のものになることができますように」と言うのと同じです。私たちの人格が高まるにつれて、私たちはより多くの責任を引き受けるエネルギーを持つようになります。

そうなれば、人々は私たちを雇いたいと思うようになり、私たちを一緒に仕事をしたいと思うようになります。

進歩は、ごく自然に起こるのです。難なく成功を達成することができるようになります。

それは、神に彫刻を任せ、自分は粘土になる、ということです。

私たちがすべきことは、粘土が乾かないように水をかけ続け、従順な適応性を保つことです。

『コース』はこういいます。

神の計画を受け取るためには、自分の計画をもってそれに代えようとしないという気持ちがなければならない。

何をするにしても、神様のためにして下さい。

☆所感

力任せに地位を手に入れようとしても、人の心は動きません。人格的に問題があれば、その地位は絵に描いた餅なのです。

自分の中の愛に導かれるまま、神の望むところへいき、神に命ぜられる言葉を話す、それだけです。

何かをする前に、祈る習慣をつけてみてください。

「神様、この状況はあなたにお任せします。どうぞあなたの目的のために私をお使い下さい。私が心を開いて愛を与え、愛を受け取ることができますように」

第7章 9 セールスマンからサービスマンへの変容

奇跡は私たちを、セールスマンからサービスマンへの気持ちへと変えてくれます。

私たちが何かを売ろう、すなわちお金を儲けようという動機をもっているときは、自分の事だけを考えています。

他方、奉仕したいという動機をもっているときは、他の人のことを考えています。

意識の世界においては、私たちは自分が与えるものしかもっていることはできないのですから、サービス精神はセールスの精神よりも、ずっと豊かな精神であることになります。

貢献と奉仕という動機から行動する人は、極めて高い道徳的な力を持つようになるために、世俗的な成功は自然とやってきます。

「それをしても生活費を稼ぐことができないから、やりたくはありません」と言う言葉は、宇宙に対して僅かな光した発しません。

著者は、『コース』の講演で収入を得るようになるまでに、2年を費やしました。

物事によっては、収入があろうとなかろうと、「やることが正しい」ことであるというただそれだけの理由でやるものです。

それは、あなたが本気であるというメッセージを宇宙に贈ります。あなたが宇宙に対しいて本気で取り組むと、宇宙もあなたに対して本気になるのです。

☆所感

「何かを売ろう」と「奉仕したい」という気持ちの違いは何なのでしょうか。

「奉仕したい」といくらボランティア活動にいそしんでいるだけでは、私たちは生活していくことができません。

思うに、「奉仕したい」とは、相手も自分も神の世界を作るために活かしたいという気持ちなのではないでしょうか。

世界に価値を提供すれば、それに相応する報酬を得られるのは当然です。

そのような自分と他者、すなわち究極的には神に「奉仕したい」という気持ちが、自己犠牲にならない価値提供を生むのでしょう。

第8章 肉体

1 肉体の目的

『コース』は、肉体とは、栄光に満ちた、完ぺきな考えの一部分を取り巻く非常に小さなフェンスであると述べています。 

しかし、これは肉体が悪いということを言っているのではありません。

心が肉体の特性を、恐れに基づいた目的か、愛情に基づいた目的かに変えるのです。

エゴは、攻撃と快楽とプライドのために肉体を利用します。対して、聖霊は、この幻影を癒すために肉体を利用します。

この意味において、肉体は神の神殿となるのです。聖霊の声は肉体をどのように利用すべきかについて導きを与えることにより、肉体の中にあるのです。

聖霊は、私たちに、私たちに手や足や声を貸してくれるようにと、私たちに依頼します。

肉体は世界を変貌させるための一手段であるとみなし、肉体自体が目的ではないとみなすことは、肉体に対する健全な認識です。

肉体が病気になるか健康になるかは、心が肉体をどうみなすかにかかっています。

健康は、肉体を愛情なしに使おうとするあらゆる試みを放棄した結果にある。

肉体を用いる目的はただひとつ、愛を延長することです。

☆所感

もしあなたの身体の調子が芳しくないならば、自分を大切にしているのか見返す時期なにかもしれません。

あなたの中に、ずっと許せないことがあるのではないですか?

あなたは、自分を責めていないでしょうか。

まずは、それを探って感じてみてください。

瞑想や、ジョイニングが有効です。

2 健康と癒し

病気は神が私たちを裁いていることの現れではなく、私たちが自分自身を裁いていることの現れです。

病気は神から分離しているしるしであり、癒しは私たちが神のもとへ帰ったというしるしなのです。

本書に挙げられたオハイオ大学の面白い実験を紹介しましょう。

うさぎの一群に、高コレステロールな食事を与え続けました。

うさぎのグループを2つに分け、一方のグループはそのままに、もう片方のグループのうさぎには、食後ある行為をほどこしました。

すると、後者のグループのうさぎは、前者のグループより、動脈硬化などの病気になる割合が60%低かったのです。

病気を防いだ「ある行為」とは、食後数分間、人間が愛情をこめて、そのうさぎを抱いていただけです。

また、サポートグループとの話し合いに参加するがん患者は、そうしない患者に比べて、平均して2倍長生きするという結果もでています。

これらの話しあいでは、病気の話はほとんどでてきません。彼らは病気に近づくために話し合うのではなく、自分たちの中に在る癒しの力に出会うために話し合うのです。

私たちが病気になったときに直面しなければならない問題の多くは、健康であったときに何らかの形で直面しながらも対処できなかった問題です。

薬はあなたを癒すことがあるかもしれません。

しかし、癒しは薬によってもたらされるのではありません。

それは、信念によってもたらされるのです。

病気を跳躍台にして、神のもとに飛び込むのです。

☆所感

もしわかるとしたら、あなたは自分自身の何を裁いているのでしょうか。

3 健康な思考

私たちの内部には癒しの力があります。神聖な医師とでもいうべき存在が私たちの心の中に座っていて、細胞の一つ一つとコミュニケーションを図っています。この力が、免疫細胞を動かしている知性です。

贖罪は心を解放して心が持っている創造的な力をフルに発揮させます。

翌日に講演会を控えていた著者が、のどの痛みに耐えかねて、バーで「ホット・トゥデイ」というカクテルをつくってもらっているとき、彼女に気があるようなそぶりをしてみている男性がいました。

「それを飲んでどうするつもりなんですか?」

彼女は彼と話したくありませんでしたが、彼女は意地の悪い想いが罪の意識を免れることはできないことがわかっていました。

(彼もあなたの兄弟の一人でしょう、マリアン。仲良くしてあげれば?)

彼女が事情を打ち明けはじめると、医師であった彼はすぐさま処方箋を書き、彼女に渡してくれました。

その薬は彼女がずっと望んでいたものだったのですが、引っ越してきたばかりのその地で、すぐに処方してくれる医師を知らなかったのです。

彼女はすぐに薬局に行ってその薬をもらい、飲み下し、事なきを得たのでした。

癒しは私たちが受容できるレベルでしかやってきません。

『コース』によれば、聖霊は、恐れが存在するところをよけて通るといいます。

☆所感

あなたのその問題は、独自の解決策をもってやってきています。

その問題をきっかけに、どれだけ謙虚になれるか。

認識の転換こそ癒しです

4 心を救うことは肉体を救うこと

『コース』は言っています。病気は分離が原因であり、癒しは人と繋がることによって起こる。

癒しは病気と私たちの関係についての認識を転換することによって起こります。

ガン、エイズ、その他の重病はスピリットの悲鳴が肉体的に顕現したものであり、それらのメッセージは「私を憎んで!」ではなく、「私を愛して!」です。

病気を攻撃すれば、病気はますます大声で怒鳴り始めます。癒しは、私たちがかかっている病気と対話して、病気が何を伝えたいのかを理解しようとすることから生まれます。

著者は仕事で、手紙を書いて病気を癒すという方法を使ってきました。

「親愛なるガンへ」…

自分の病気に対し、自分の正直な気持ちを書くのです。

「私はあなたを憎んでいました…」

ガンからも返事が返ってきます。

「私もあなたと同じように、愛がほしいだけです。お互いの言いたいことに耳を傾けるようにすれば、傷つけあうことなく共存できるかもしれませんね…」

贖罪はとてもやさしく、あなたがただそれに向かってそっと囁くだけで、そのすべての力があなたを援助し、サポートするために駆け付けてくれます。

私たちが自分の役割を果たせば、神は神の役割を果たしてくれるのです。

☆所感

あなたの病気はあなたに何を伝えようとしているのでしょうか。

あなたが自分を傷つけ続けていることは何でしょうか?

あなたはベストを尽くしてきました。許してあげて下さい。

5 人との関係において肉体をどうみるか

私たちの本当の帰属性は、私たちの肉体にではなく、私たちの霊にあります。

肉体と自分を同一のものとみなせば、必ず憂鬱を体験することになる、と『コース』は述べています。

その方法の一つはセックスです。

私たちの性衝動は何も描かれていないキャンパスのようなもので、性衝動を通して愛を他の人々に差し伸べるか、それとも恐れを投影するかの選択ができます。

セックスが聖霊の導きによるとき、それはコミュニケーションをさらに深化させるものとなります。

反対に、それがエゴによって導かれるとき、コミュニケーションの単なる代用品になってしまいます。

スピリチュアルなコミュニオンの乗り物として使われるときに初めて、セックスは愛情に満ちたものとなり、私たちを他の人と結びつけてくれます。

そのとき、セックスは神聖な行為となります。

神聖であるということは、愛に満ちた目的があるということです。

その意味からすると、肉体も、それを飾る衣類もまた、神聖な表現になることはできます。

メークとか、着るもの、その他形あるものの唯一の目的はそれです。

すなわち、それによってこの世界の幸せにどれだけ貢献できるか、ということです。

☆所感

「誰かに好かれよう」という想いでオシャレをするのと、「世界に喜びを広げよう」としてオシャレをするのとは違います。

前者は自分も周りの人も犠牲にする考え方です。後者は世界の光を増大させる、神聖な行為です。

6 虚栄、体重、年齢

虚栄とは何なのでしょうか?

体重、髪の毛、外見、セックスアピールに過激なまでにとらわれ、アメリカ人に毎年何百億ドルものお金を使わせて、本当の意味で必要ではないものを買わせるものは何なのでしょうか?

肉体を手段ではなく目的と認識すると、恐怖が生まれます。私たちは十分ではない、十分魅力のある存在ではない、という恐怖です。

誰も私たちを好いてはくれないという恐怖、人生において失敗するだろうという恐怖です。

このような自分という存在を肉体と同一視するあり方を、私たちの本質は肉体ではなく、愛であり、私たちの価値を決定するのは愛だけであるという記憶と取り換えない限り、この苦しみに満ちた混乱を逃れる術はありません。

私たちの心が光で満たされているとき、暗闇が入る余地はなく、そこに苦痛や混乱が生じる余地はありません。

体重を減らそうと思うほどに、体重が増えるのはなぜでしょうか?

肉体をどうにかしようとするから、その目的通りに肉体が動かないのです。

何でも食べたいものを食べたいだけ食べてみてください。

最初は太るでしょう。いままで自分に課してきた圧力の逃げ場をつくってあげなければなりませんから。

しかし、しばらくすれば、もう十分だと思うでしょう。そうすると、肉体は自然な本来のリズムに戻ることができます。そして、あなたは癒されます。

老齢化も同様です。

今日の私たちの生活においては、肉体の老齢化は苦痛と悩みに結びついています。

しかし、この肉体で軽々と動き回り、いつも体のことを考えることをやめるようになれば、老齢化はまったく異なった体験になるでしょう。

聖母マリアは五十代まで生きていたにもかかわらず、まったく歳をとらなかったといいます。

私たちの心が愛情と思いやりに満たされ、過去も未来も肩にかかる重荷でなくなれば、歳をとる代わりに若くなっていきます。

なぜなら、時間の唯一の目的は、形への執着を取り除いていくことだからです。

パリの街を歩いていると、五十代、六十代の女性が成熟した色気を発散しています。

中国においてはお年寄りは尊敬され敬まれており、いつまでも健康で生産的な市民として長生きしています。

病気、中毒、あるいは歪曲された身体的な表現であれ、何であれ、その原因は私たちの心にあります。

したがって、それらは心によってのみ癒すことができるのです。

☆所感

「こうでなければならない」というエゴを手放し、自然なリズムに身体を委ねましょう。

それが自分自身を、そして世界を癒すことです。

そこに、あなたが求める人間関係もついてくるのです。

その人が求めているのは、何かに囚われているあなたではなく、そのままのあなたです。

7 癒しの意味

私たちは、癒しと聞けば、普通は体の癒しのことを考えます。しかし、『コース』は、健康とは内なる安らぎであると答えます。つまり、心の癒しです。

病気の体験した人の多くが、病気は「ウェークアップコール」だと言っています。つまり、目を覚まして人生を体験しなさい、目を覚まして友達や家族に感謝しなさい、目を覚まして訪れる朝をいつも祝福しなさい、というわけです。

生命を脅かす病気にかかっている人たちが、病気であると診断されて初めて本当の人生が始まった、といいます。

私たちが抱いている様々な幻影を振り払うこと自体が癒しです。

私たち一人一人の中に核心があり、それが私たちの内なる神です。

その本質を見出すことが神への回帰であり、私たちの人生の目的です。

成長とは、必ずしも、私たちが望んでいると考えているものを手に入れることによって得られるものではありません。

それは常に、私たちがそうなれる潜在的な可能性を持った男性なり女性になることにより得られます。

すなわち、愛情に満ちた、純粋で、正直で、明確な人間になることです。

☆所感

病気に限らず、何かトラブルが生じるのは、あなたへの「ウェークアップコール」なのです。

そこであなたは選択を迫られます。

すなわち、この瞬間から、神を含めて誰も信頼できない辛辣な人間になるか、それとも、この悲しみのために流した涙で自分の心の周りに築いていた壁を流し去り、たぐいまれな深さと感受性をもった人間になるかです。

8死と輪廻転生

『コース』は、出生は始まりではなく継続であり、死とは終わりではなく継続である、といっています。

生命は永遠に続きます。肉体を持って生まれて来るというのは、生命の一つの形にすぎません。

著者は飛行機事故に遭った若い女性から話を聞いたことがあると言います。

彼女は体の半分の血液を失い、両足がほとんど完全に切断された状態でした。

「私は帰ってきたんです。それはとても魅惑的で、とても暖かくて、まるで母の愛のような感じがしました。しかし、私にはその選択ができないことを知っていました。父の事を思い出しました。私が死んだならば、父には耐えきれないだろうということが私にはわかっていました。そこで、私は戦って、帰ってきたのです。」

「私は葬式の席ではもう泣くことはありません。地上に残された人たちのためには泣きますが、死んだ人は素晴らしい場所にいるということを自分の体験から知っているからです。」

生命は終わりのない本のようなものです。章は終わっても、本が終わるということはありません。

ひとつの肉体を持った人生の終わりは一つの章の終わりであり、あるレベルで次の章の始まりとなります。

したがって、肉体が消滅したからといって、コミュニケーションが終わることはありません。本当のコミュニケーションとは、言われたこと、聞いたことに依存するものではありません。

誰かが死んだならば、これまでとは異なった方法でその人と話さなければなりません。

永遠の生命という可能性に、心を開くのです。

死とは解放です。死はそれを欲しない肉体に苦痛と共にやってくるものではなく、解放を優しく歓迎する形でやってきます。

真の癒しがなされることによって、それが可能となるのです。

☆所感

永遠の生命を認識できたとき、私たちは死についての恐れを手放すことができます。

それは生命の一体性への認識であり、愛への源です。

私たちがこの肉体を使ってなすべき仕事をなしたとき、あなたのその死への認識は現実化するでしょう。

第9章 天国

1 幸せになるという決断

神の意志は、私たちが、、幸せになることです。

「神の意志が実現しますように」という祈りは、私たちは人生の美しさに焦点を絞り、悲しむ代わりにお祝いをするための理由を見つけるようにと心に指示しているのです。

普通、私たちは自分を幸せにしてくれるであろうことを想像し、それを実現しようとします。

しかし、幸せは外的な状況に依存するものではありません。この世界にはすでに、幸せであるための理由が数えきれないほどあるのです。幸せに至るカギは、幸せであろうとする決断にあります。

私たちは愛を感じ、満足感を感じ、幸せを感じる許可を自分自身に与える必要があります。人間が置かれた状況の最も重要な側面は、常に選択することができる、ということなのですから。

「グラスが半分からであると見ることもできるし、半分満たされていると見ることができる」という使い古された言葉があります。私たちは自分の人生でうまくいっていない側面に焦点を合わせることができれば、うまくいっている側面に焦点を合わせることもできます。

しかし、どのほうなものであれ、私たちが焦点を合わせるものは増大することになります。創造は、思いの延長だからです。

たしかに、否定的な感情にも目を向ける必用がありますが、その目的はそれを解放して、否定的な感情に横たわっている愛を感じることにあります。

肯定的な感情を感じ、肯定的な思いを抱くことは、実は難しくありません。問題は、私たちがそれに抵抗してしまっていることです。

『コース』は言います。「私たちの多くが持っている隠れた信念の一つは、あまりにも幸せであることは間違っているといものである。」

人々はキリストの復活よりも、彼が磔にされたことに注目してきました。

しかし、復活がなければ、十字架刑は無意味な象徴にすぎません。十字架刑は恐れのエネルギーパターンであり、閉ざされた心の顕現です。

これに対して、復活はそのパターンの反対であり、思いを恐れから愛へと転換したことによってもたらされます。

人生がどんなに視界不良であっても、私たちは心の奥底では、人生は常に進行しており、常に良い方向に向かっていることを知っています。

幸せな終わりがやってくると信じるのです。

復活は暗闇の真っ只中にあって、光を見るという決断を象徴しています。

私たちは他の誰よりも自分自身を虐待してきました。

私たちは喜びを受け入れることができずにいましたが、その理由は、「喜びとはこうである」という自分のイメージとマッチしなかったからです。

私たちの価値をエゴは極めて低く評価するのに対して、神が創造した真実は毅然として屹立しています。

それは、私たちの内側から輝き出る光であり、私たちが神を代表して立っているというしるしです。

そして、幸せは、私たちがそのような神の意志を受け入れたしるしなのです。

2 輝かしい存在

神の目から見れば私たちはみな完璧であり、無限の素晴らし表現能力を持っています。

ここで、「無限の潜在能力」といわないのは、それが危険な概念だからです。

どう危険なのでしょうか?

私たちは、潜在能力を利用して自分自身を虐げることができます。

つまり、今という瞬間に生きる代わりに未来に生き、現在の自分と、可能性としての自分を比較することによって、自らを絶望に追いやることが可能なのです。

私たちが完全なマスターになるまでは、潜在的な能力を常に生きることは不可能です。潜在的な能力は、常に「いつか後にできる何か」であり続けるでしょう。

潜在的な能力と言う概念は、私たちを束縛して無力な状態にしかねません。

しかし、能力は今という瞬間に表現されます。即時的です。

もちろん、今の私は明日の私より優れた存在ではないかもしれません。

しかし、今動き出すことをせずに、どうやって明日に約束されていることに到達することができるのでしょうか?

常に達成できることは、あなたの前方に常にぶら下がっているのです。

潜在的な可能性を生きている人とそうでない人の違いは、今という瞬間に生きることをどれだけ許しているか、その違いです。

人生の名手になるには、全てのことに名手になる必要はないのです。

人生の名手であるためには、必ずしも上手に歌をうたう必要はなく、声を上げて歌うことが必要なのです。

☆所感

あなたの前には様々な可能性が開かれていて、マヒ状態になって動けなくなるときがあるかもしれません。

「どの道を行けば、自分の潜在的な可能性を発揮することができるのか…」

それは神経症のもとです。

あなた目の前に、あなたが救える人がいるはずです。

それを始めてみてください。毎日が輝き出します。

その延長に、あなたが望むような未来があるのです。

3スピリチュアルになるための練習

愛を得るためには、パワーストーンや四葉のクローバー以上の何かが必要です。それは、鍛錬と練習です。

『コース』は、心が訓練されていないために私たちはほとんど何も達成することができないでいる、と述べています。

私たちは愛情で満ちた反応を示す代わりに、本能的に被害妄想的で、断定的で、恐れに満ちた反応を示します。

『コース』は、私たちは心の放浪に対してあまりにも寛容すぎると述べています。

では、どのような鍛錬が必要なのでしょうか。

その一つが、瞑想です。

瞑想をしていると、普通の覚醒した意識状態よりも、より深いレベルで情報を受け取ります。瞑想は沈黙の中で神と時を過ごすことであり、静かに耳を傾けるときです。

スピリチュアルな成長とは、形而上学的に複雑になることではなく、基本的な原則が思考体系に徐々に深く浸透するにつれて、より単純になっていくことです。

その効果は累積的です。ジムに行って1時間運動しても、目に見えた変化は現れません。

しかし、それが1か月も続くとなると、効果は目に見えてきます。

私たちにエネルギーの質や、私たちの放つ想いがどれほど周囲に影響を与えているのか、私たちは自分で気づいていないかもしれません。

しかし、他の人たちはそれに気づき、それに応じて反応しているのです。

最も高い存在レベルでは、私たちは何もしません。神の力が私たちを通して働くとき、私たちは休息します。

瞑想は深い安らぎです。

4 光が見える

私たちの中に在る光だけが現実です。私たちは自分たちの中にある暗闇よりも、光を恐れています。

暗闇には慣れています。それはすでにおなじみなのです。あなたにとっては忘却も地獄は、天国よりも身近で、よほど受け入れやすいものなのです。

私たちは素晴らしい存在なのだという考えはエゴにとっては大変な脅威であるために、エゴは大きな武器をとり出してそれと戦います。光に対する私たちの防御は常に何らかの罪の意識という形をとり、私たちはそれを自分自身、または他人に投影します。

それでは、どのすればこの攻撃から逃れることができるでしょうか?

それは、神の意志を自分の意思として受け入れることによってです。神の意志は、私たちが幸せであれ、ということです。神の意志は、私たちが自分自身を許すことを求めています。神の意志は、私たちが今この瞬間に、天国に、自分の場所を見つけなさい、ということです。

本来の私たちは素晴らしい存在であり、私たちが表現したいことは価値があると教えてくれるのは、私たちの傲慢ではなく謙虚さです。首尾一貫してほかの人々をサポートし、慈しむことを困難にしているのは、私たちの自己嫌悪です。

なぜなら、他の人たちをサポートすることは、自分自身をサポートすることになるからです。

どんな分野であれ、成功する人は他の人が成功するための可能性をより多く作り出す人です。資源は限定されているという考えにしがみついているのは、地獄にしがみついているのと同じです。

私たちは神聖な思いだけを考えるようにしなければなりません。天使は、神の思いです。

天国にあっては、人は天使のように考えます。

☆所感

罪の投影と許しについて述べられています。

家族を救えなかったという罪の意識から、埋め合わせの行為に出る。

しかし、それは本当の自分の情熱ではないため、自分をいじめてしまうのです。

そんなようにして育んだ自分を許し、再統合することで、人は、自分を助け、世界を助け、それにより家族を助けることもでます。

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世界はそれを許しています。

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5 世界の終わり

この世界が様々な苦痛に満ちていることを考えれば、私たちが知っている意味での世界の終わりはそうれほどひどいものではないでしょう。

地球終焉の日には、恐ろしいこの世界を逃れて乗り物に乗って宇宙に上昇するのではなく、乗り物に乗って内なる宇宙へと飛び立つのです。その乗り物とは私たちの癒された心であり、それは聖霊によって導かれていくのです。

天国とはどのような所でしょうか。私たちの多くは天国はほんの少しだけ垣間見たことがるに過ぎませんが、ちょっと見ただけでも天国はいつも帰りたいと思わずにいられないようなところです。

たとえば、母親の乳房を吸っていたときや、価値判断を完全に放棄したときなど、内なる安らぎを感じます。他の人を変える必要も感じなければ、ありのままの自分を変える必要も感じません。

理由が何であれ、他の人との完璧な美しさが見え、他の人もまた自分の美しさを見てくれていると感じます。

私たちは天国への鍵をもっているのは一人の人や、一つの状況であると考えてこの旅に出ます。

しかし、天国は私たちの中にあります。天国は他の人たちの考えには究極的には何の関係もなく、私たちの考えによって決まります。

それは、一人の人についてだけではなく、全ての人についての私たちの考えです。

したがって、人類を許すこと、あらゆる状況においてあらゆる人を許すことが、天国にいくための切符であり、私たちの故郷に帰るための唯一の方法なのです。

『コース』はいいます。「誰も幻影を直視することなく幻影から逃れることはできない。なぜなら、直視されないがために幻影は守られている」

天国へ至る道の両脇には、悪魔がいっぱいです。それはちょうど、おとぎ話に出てくるお城が、竜に包囲されているのと同じです。

したがって、心理療法とは、エゴの探求をし非難することではなく、光を探究する手段になります。

二人の人間が一緒に、聖霊を二人の関係に招きいれ、苦痛に満ちた認識を愛に満ちた知識へと変貌させることです。

聖霊によって導かれた心理療法学者は、プロであれアマであれ、自分自身のために贖罪を受け入れるよう求めるだけです。そうすることによって、彼ら自身の癒された認識が、他の人たちに光を投げかけるようになり、世界は天国へと変貌するのです。

☆所感

これからは、カップルの人たちがますます心理療法を使うことになるでしょう。

心理療法は危機的な状況に陥ってからするものではなく、二人の関係を維持し進展させるための手段となる日がきます。

今の世界は病んでいます。正気を保つための当たり前の方法として、心理療法が活用されるようになれなければなりません。

僕は、そんな世界へ向けて進む人類の、先陣を切る存在です。

6 天国の門

私たちは天国の門の前にたたずんでいます。私たちは故郷に帰ろうとしています。私たちは、放蕩息子の世代です。

私たちは、面白い世代です。聖書の中に、「神は罪人を愛す」と書いてありますが、それは、罪人は普通の人に比べて面白いからです。

私っ達は、甘やかされたガキのようなもので、道徳的にも破綻しています。

しかし、なおよく見ると、そこにはその傷は単なる癒しのたための機会に過ぎないのです。

私たちが目を覚ます前に、聖霊が私たちの苦い夢を楽しい夢に変えてくれるでしょう。過去について重要なことは何かといえば、それは何をしたかではなく、どう対処したかえであり、何を学んだかです。

そして、本当に苦しみを味わった人ほど、苦しみに対して適切な援助ができる人はいません。

天国の門に立って、世界を変容させたいという動機によって私たちの魂を元気づけ、私たちの信念を行動に写そうとすれば、やるべきことは山ほどあります。

私たちは、神を信頼しなければなりません。そして、自分自身を信頼しなければなりません。

神が意図されたことは何であれ、その方法を私たちにお示しになるでしょう。

私たちには、やるべきことがあります。全ての人に、国に、癒すべきところがあるのです。

☆所感

私たちの苦しみは、世界を癒すための薬になります。

それを世界に与えると決断し、行動したとき、あなたは天国の門をくぐるのです。

7 クリスマス

クリスマスは変化、すなわち地獄が破壊され天国の門をくぐる奇跡の象徴です。

それは、私たちの人間性を母として、神を父として、新しい自分が誕生するということです。マリアは私たちみんなの中にいる女性を象徴し、私たちはスピリットによって身ごもることになるでしょう。

天使が真夜中にマリアの目を覚まし、屋根の上に会いに来るようにと告げました。真夜中は私たちの暗闇、混乱、そして絶望を象徴しています。「屋根に上りなさい」と言う言葉は、テレビを消して、酔いを醒まして、真面目な本を読み、瞑想し、祈りなさいという意味です。

天使は神の想いです。神の想いは純粋な精神的環境の中でしか聞こえません。

そこでの彼女の役割は「はい」と答えることです。「私はこのプロセスを流産させません」「私は神聖な役割を謙虚に受け入れます」

この神秘的な懐妊によって生まれる子どもは、私たち全ての中にいる、キリストです。

世俗世界の王様が集まって、敬意を払うために羊飼いのところにやってきます。その理由は、世俗世界の力は、無邪気さの力の前にはまったくの無力であるからです。

ライオンは羊と共に横になるのです。私たちの強さは、私たちの無邪気さと調和を図ることにあります。

私たちの優しさと力は、矛盾するものではありません。

かくして世界は回復し、元に戻り、癒され、完全なものとなります。そこで、私たちは神との正しい関係、お互いとの、そして自分自身との正しい関係を、再び発見することになります。

☆所感

女性性と男性性の調和のお話です。

女性性とは、直感に従い無邪気になることです。大して、男性性とは、私たちが成長する上で築き上げてきた力です。

これらを統合し、大人のままで幼子に帰っていくことが、相互依存であり、霊的依存の段階です。

8 復活祭

『コース』はいいます。「復活は喜びの象徴です」

復活は偉大なる悟りであり、復活を受け入れることは、自分自身はすでに癒され十全な存在であると見るために、もはや待つ必要はないという事実を実感することです。

キリスト意識とは、天国は今ここにあると意識することです。

私たちの悲しみは事実に基づいたものではなく、フィクションに基づいているのです。

私たちの心を鎖につなぎとめるのは、出来事そのものではなく、出来事に対する私たちの解釈です。

天国は、これらの物事を心の中で変容させることによって、出現します。そうすれば、物質の世界は後に従います。

復活とは、夢から覚めることであり、正しい心の在り方に戻り、かくして、地獄から自分自身を解放することです。

神は、奇跡でもってそれに答えてくれます。

☆所感

私たちは別な解釈をすれば幸せになれるのに、地上的な解釈をすることによって、どれだけ熱心に自分自身の手や足に釘を打ちつけているのでしょうか。

十字架刑の唯一のメッセージは、「あなたはそれを克服することができる」ということです。

天国は既にここにあるのです。

私たちが本当に恐れているのは、贖罪です。

しかし、キリストはエゴを攻撃しません。エゴを超越するのです。

愛だけが現実であるということをいつも思い出せるように、祈りましょう。

「親愛なる神様。私は今日という日をあなたに捧げます。私の労働の果実と私の心の願望をあなたに捧げます。全ての問いかけをあなたの手に、全ての重荷をあなたに委ねます。私は京大と私自身のために祈ります。私たちが愛へと帰還しますように。」