オッス!かずだ!
渋沢栄一の「論語と算盤」を読んだのだが、そこで以下のような記述があった。
世間には、冷酷無常でまったく誠意がなく、行動も奇をてらって不真面目な人が、かえって社会から信用され、成功の栄冠に輝くことがある。
これとは反対に、くそ真面目で誠意に厚く、良心的で思いやりに溢れた人が、かえって世間からのけ者にされ、落ちこぼれる場合も少なくない。
「天道は果たして是が非か(お天道様のやることは、果たして正しいのか、間違っているのか」
という矛盾を研究するのは、とても興味ある問題である。
引用:渋沢栄一著 守屋淳訳 「現代語訳 論語と算盤」 ちくま新書 975頁
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俺も、この矛盾には非常に興味がある。
というのは、俺って仕事でも何でも真面目にがんばるんだけど、それを人に理解してもらうのが苦手で、嫌われたり、誤解されてのけ者にされることが多いからだ。
他方、あんまり頑張っていないのに、人当たりがよかったり、外見がよかったりでチヤホヤされている奴もいる。
こういう矛盾ってあなたも感じてると思うし、世の中でもはびこっていると思うんだが、これについてどう対処していけばいいのだろうか。
俺は、この矛盾に直面するとき、「不合理だな~」とか、「世間は上っ面しか見ないバカしかいない」と思ってふてくされてしまっていた。
でも、ふてくされるだけでいいのか?自分に何かやれることはないのか?
そういうことを考えながら、民法の公示の原則と公信の原則を勉強していると、この矛盾と本質的に同じことを扱っていることに気が付いた。
そして、公示の原則と公信の原則の学習を深めるうち、この矛盾にどう向き合えばいいのか、答えが見つかった。
法律を学ぶことで、その悩みへのアプローチの仕方も学べるのだ。 これが、本当に法律を「理解」するっていうことだ。
そこで、以下、公示の原則と公信の原則の基礎の考え方を紹介したあと、
それを踏まえ、上記矛盾にどうアプローチしていけばいいのか、栄一じいちゃんもぶつかった問題への、俺なりの答えを示す。
この理解が、法をマスターする上で、また人間関係を円滑にするうえでのコアとなる。
だから、しっかり学んでいこう。
目次
公示の原則と公信の原則
公示の原則と公信の原則を理解するには、まず意思主義を理解しなければならない。
意思主義とは
意思主義とは、法律行為に基づく物権変動に関して、意思表示のみよる物権変動を認める立場である。
民法の基礎にある、私的自治の原則1に忠実な立場である。
これに対して、物権には排他性1があることから、取引の安全が害されないように、慎重を期す必要があるとして、登記(不動産)・引渡し(動産)などの形式(≒公示方法)が伴わなければならないとする形式主義もある。
わが民法は、176条において、意思主義をとることを明示している。
その結果、第三者が外形的に認識することのできない物権変動によって害されるおそれ出てきてしまう。
二重譲渡の場合である(下図C。Bから所有権に基づく物権的返還請求権としての土地明渡請求を受ける)。
このような第三者を保護するため、わが民法は、不動産については登記、動産については引渡しという公示方法を用いることにして、第三者に権利関係が「見える」ようにしている。
もっとも、公示方法というシステムを整えただけでは、人々は使わず、意味がない。
そこで、公示の原則を採用し、登記をしないデメリットを付与し、登記を促すことにした。
公示の原則
公示の原則とは、第三者は、公示方法を備えていない物権変動を存在しないものと扱うことができるとする原則である。
これは177条に規定があり、これによると上図Bは、①売買のような不動産に対する物権の承継取得について、登記なくして第三者Cに対抗することができないのである。
すなわち、BのCに対する所有権に基づく物権的返還請求権としての土地明渡請求に対して、Cは対抗要件の抗弁を主張することができる。
「おまえ、登記ねーじゃん!所有権みとめね~」というものである。
これは、目的物の所有権の帰趨について決するものでなく、マイナスを引き分けにもってくるイメージである。
これは、第三者の方から見ると、「物権変動の登記がないならば実体上物権変動もない」という消極的な信頼を保護される、ということになる。
公示の原則の趣旨は、不動産に関する紛争を登記の有無によって一律に処理することで、第三者の消極的な信頼を保護し、また登記の定着を図り取引社会を安定させ、意思主義の弊害をなくそうとするものである。
上記事例で、第二譲受人であるCが所有権移転登記を備えたときは、Cが所有権を確定的に取得し、AのBに対する財産権移転義務が原則として履行不能になる(412条の2第1項)。
その場合、Cは対抗要件具備による所有権喪失の抗弁により(二重譲渡で勝ったことの主張)、Bの所有権に基づく明渡請求を排斥できる。
では、二重譲渡で負けたBの保護はいかに図るか。
- BはAに対し、履行に代わる損害賠償請求権(415条2項1号)を主張し、その損害の賠償を請求することができる(Aの免責事由が問題となりえる。同条1項但書)。
- AがCから代金を受け取っていた場合、BはAに対し、422条の2に基づく代償請求権を主張し、自己が受けた損害額を限度として、AがCから受け取った利益(代金)の償還を請求することができる。
- Bは上記2つのいずれかの債権を被保全債権として、A・C間の譲渡行為を詐害行為として取消し、AからCへの所有権移転登記の抹消を求めることができる(424条)。2
- Aの行為は、自己が法律上占有する他人Bの所有物を処分したものとして、横領罪(刑法252条・253条)が成立する余地がある。
なお、動産は「引渡し」により公示がなされ(178条)、これにより第三者の消極的な信頼が保護されることになる。
しかし、これは以下で述べるように、きわめて貧弱な保護であり、公信の原則により補完される必要がある。
公信の原則
動産については、公示の原則による取引の安全が十分に図れない。
上述のように、178条は、「引渡し」(=占有1)という公示方法を用いている。
この占有という公示方法は多様な種類があり、下図のBのような代理占有(181条)や、占有改定(183条)、指図による占有移転(184条)等の観念的なものでもよく、権利者が目的物を現実に所持しないまま対抗要件を備えていて、
かつAのような占有代理人による直接占有もされているというダブルバインド的な状況が起こる。
そうすると、
- 権利と公示の一致があるものの、第三者はその公示を知ることができず、無権利者からの取得を止めることができない。
- さらに、その第三者は、権利者からの引渡請求に公示の原則を使って対抗することができない。
このような状態では、第三者が真実の権利者を詳しく調べて取引しなければならなくなるが、高価であまり動かない不動産ならまだしも、
動産取引の多くは日常きわめて頻繁に、かつ短時間のうちに行われるものであるから、第三者が真実の権利者を詳しく調べて取引をするのは、取引社会の停滞をもたらしてしまう。
その友達がCDを、第三者に売ってしまった場合を考えてみよう。
占有を公示方法とする上記弊害を防ぐため、公示方法として不動産と同じように登記を採用すればいい、と考えるのは自然な発想である。
しかし、動産は世の中にあふれるほど多くあり、登記という公示方法をとるにはコスパが悪すぎ、採用できない。
もっとも、動産とはいえ高価なものもあり(機械など)、そのような動産を担保にして融資を受けるニーズもあるから、動産譲渡登記という制度が導入されている。
リンク:法務省 登記 -動産譲渡登記-
なので、現実の所持にかかる占有を見て、権利者であると信頼して取引関係に入った第三者の保護と社会の取引の安全を図る必要がある。
そこで、動産についてはさらに、以下述べる公信の原則により、取引の安全が厚く保護されているのである。
公信の原則とは、公示の外形がある場合に、第三者がその外形に対応する物権(変動)の存在を信じたときは、その信じた物権(変動)が存在するものと扱うことができるとする原則である。
これは、民法192条により動産について認められており、第三者は善意無過失1等の要件を満たす限り、所有権を原始取得する。
これは、第三者の「公示があるならば所有がある」との積極的信頼を保護する規定であるといえる。
不動産については、明文で公信の原則はとられていない。
なぜなら、不動産は動産と異なり、価値が高く、また頻繁に取引されるものでないから(一般ピーポーにとっては一生に一度の買い物である)、
- 真実の権利者の方を強く保護する必要がある。
- 第三者に対し、登記名義人が本当に権利者なのか調査させても酷とはいえない
からである。
もっとも、真実の権利者をそれほど強く保護する必要がない場合(帰責性がある場合)には、第三者の信頼を保護してもよい。
これが、94条2項但書類推適用という超重要論点の話である。
公示の原則と公信の原則まとめ~民法は何が言いたいのか~
公示の原則については、公示が伴わない権利者を保護しないこととしているので、権利者に対し、
- 「内面だけでなく、それに伴う外見も備え、周りにアピールせよ!」
と命じている。
他方、公信の原則については、明文では動産について、権利が伴わなくとも、やるべきことをやった上で公示を信じた第三者を保護しているので、その第三者に対し、
- 「些細なことであれば、外見を信じてもいいが、そのときでも上っ面だけでなく注意して中身を見るよう努力せよ!」
と命じている。
不動産については、明文で公信の原則が否定されているので、第三者に対し、
- 「重要なことだから、外見だけで判断せず、きちんと中身を調査せよ!」
と命じている。
道徳との統合~お互いの「思いやり」が大事~
日常生活での人間関係も、ある人の「真意」という内面と、「態度」という外面が食い違う場面があるから、その人自身がどのような態度をとるべきなのか、また第三者がその人の態度を見てどのような対応をすべきなのか、適切に決断する必要がある。
この決断において、上で述べた公示の原則・公信の原則の考え方が活きるので、以下のような事例を見て考えてみよう。
A君はいつも仕事を頑張って、上司の役に立とうとしており、仕事も優秀にこなす。
しかし、「媚びはつらうのはかっこ悪い」という信念をもっており、周囲にもぶっきらぼうな態度をとり、できるだけ他の社員との接触を避け、孤独に仕事をしている。
Aの直属の上司である課長BはそんなAの態度を見て気に食わない奴だと思い、またAの能力を妬んでいたので、部長Cに対して、「Aは仕事ができない奴で勤務態度も悪い」と酷評し、解雇させようとした。
Cはこれを受け、Bが東大出の幹部候補であるからその発言を信用できると思い、Aの事はよく知らなかったが、就業規則に基づき、能力不足、成績不良、勤務態度不良を理由にAを解雇した。
※労働契約法上の解雇権濫用法理も問題となるが、まずは純粋な人間関係のトラブルとして、公示の原則・公信の原則の法意を軸に考えてみよう。
内面だけでなく、それに伴う外見も備え、周りにアピールせよ!
まず、Aの「ぶっきらぼうな態度」について、公示の原則に照らし考えてみよう。
同原則は、「内面だけでなく、それに伴う外見も備え、周りにアピールせよ!」と命じている。
だから、Aはただ自分の仕事に一生懸命でいるだけでなく、会社や上司の役に立とうとしている態度を示しておくべきだったといえる。
明るく積極的に挨拶をしたり、「会社のためにがんばりたい」という熱意をさりげなく伝えたり…
それは決して「媚びる」ことではなく、周りの人があらぬ不安を抱かないようにするための配慮、思いやりである。
この配慮があれば、本事例においてAは、Cと信用関係を築き上げ、あらぬ疑いをかけられなかった可能性がある。
この点で、Aの態度は道徳的に必ずしも正しい態度ではなかったといえる。
Aの態度は、あくまで道徳的に少々問題があったということに留まり、法的な評価には至らない事実である
では、Cの態度は道徳的に正しかったのであろうか?
公信の原則に照らし考えてみよう。
些細なことであれば、外見を信じてもいいが、そのときでも上っ面だけでなく注意して中身を見るよう努力せよ!
まず、公信の原則は中身がないにもかかわらず外見通りの事実を認めようとする、アグレッシブな法則であるから、①重要な事実を認定することには原則として使えない(「些細な事」である必要がある。即時取得では、「動産」だったな)。
また、②外見に対する信頼は、その者に通常要求される注意を尽くしたものである必要がある(即時取得では、「善意無過失」だったな)。
本件についてみると、①Aの成績・勤務態度は、解雇という労働者に重大な影響を与える判断において用いられる事実であり、ただ単に他人Bからの口伝えで認定することは許されない。
②そのような重大な事実の判断は、Bが東大卒で幹部候補生であるという事情だけで判断してはらなず、C自らAの勤務態度や成績を客観的事実に照らし十分に調査してなされなけらればならない。
したがって、公信の原則を支える①些細なことに限られること、②通常要求される注意を尽くしたこと、を満たさず、Cの信頼・態度は道徳的に正しいものとは言えない。
つまり、Cには、真相を理解しようとする思いやりが足りなかったといえる。
このように、公示の原則・公信の原則の考え方は、それを知り身に着けることで、日常生活で誤解を防ぎ円滑な人間関係を構築できるということだけでなく、民法以外の他の法分野の問題を考えるうえでも活きる。
各種試験で頻出分野であることの理由がわかるな!
まとめ
このように、「誤解」という人間関係に不可避の問題に対処するためには、
- 本人の中身と外見を一致させようとする努力
- 周囲の人の外見だけでなく中身を見ようとする努力
両方が必要なのである。
昔の俺みたいに、「周りの人はわかってくれない」といっているだけでは、ただ周りの人の努力に寄りかかっているだけだ。
自分でできる範囲のことはやる。後は天命を待つ。
そんな「主体的な生き方」が必要なのだろう。
これは、↓の記事で紹介した、成功者が持つ「主体性」と共通する(第一の習慣)
反対に、周りの人も、「誤解される方が悪い」というような態度ではダメだ。
たしかに、忙しい日常でいちいち慎重な調査をするのは大変だし実際不可能なのだが、
重大な事項とそうでない事項を分けて、前者はキッチリ調査、後者であっても通常なすべき注意は払う、という態度が正しい。
このように、それぞれが、自分の事だけでなく相手の事も考える。
これが、道徳、そして法の基本なのではないだろうか。
単純なものが、本当に大事で、それは奥深いのだ。
今回の記事で、みなさんの考えが深まれば嬉しい。
最後に、渋沢栄一の以下の言葉をあなたに送ろう。
「自然の成り行きだし、人間社会の宿命だから」と流されるままに放置してしまえば、ついには取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうのも自然の結果なのだ。
だから、わざわいを小さいうちに防ぐ手段として、ぜひとも「思いやりの道」を盛り上げていくよう切望する。
※渋沢栄一著 守屋淳訳 「現代語訳 論語と算盤」156頁
参考文献
渋沢栄一著 守屋淳訳 「現代語訳 論語と算盤」
渋沢栄一の「思いやりの道」は、上述した「誤解」という問題への答えを示すものにとどまらない。
他にも、「自分の資産を築くうえでの他者への思いやり」について同著では詳しく説いており、同著を読んで、健全な資本主義社会の基礎にある道徳の具体的な内容を知り、
著者が考える「思いやり」についてさらに理解を深める必要がある。
佐久間 毅 「民法の基礎2物権」
本記事の公示の原則と公信の原則の記述は、もっぱらこの書籍によった。
同原則がどのような論理構造で誕生したのか、非常に丁寧に理由付けがされており、大いに理解に役立った。
非常にお勧め。
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