オス!かずだ!
- 「実行行為」と「実行の着手」って何が違うん?
- 「実行の着手で故意が考慮される」ってどういうこと?故意の検討は構成要件の一番最後じゃないの?
- 不能犯学説(具体的危険説・客観的危険説)、判例の立場あやふやだし、どの立場とればいいのかわからん!
- そもそも、構成要件と、違法・責任との関係ってマジ迷路
という方。
ホントにマジ迷路だから、法的思考をしない予備校やネットに助けを求めてもムダ。
ただの暗記に終わり、モヤモヤは一生解決しない。
そこでアンチ予備校の俺が、じっくり信頼できる下記基本書と判例集を読み解き、図でバシッと整理したから、もう悩む必要はない。
- 山口厚『刑法』
- 川端 博『刑法総論講義』
- 刑法総論百選
上記悩みは、結局構成要件にいる「行為」って何ぞやってろころの理解が必要であり、それには構成要件・違法・責任という犯罪成立要件の構造から、紐解いていく必要がある。
誰にでもわかる優しいことばで解説したから、ぜひ「なるほど」の快感を実感しながら読んでいってもらいたい。
では、さっそく始めよう!
目次
犯罪成立要件の体系
第1 構成要件該性(←罪刑法定主義)
1 構成要件は、違法類型であり、責任でさらに区別される
(1) 違法類型としての構成要件
刑法には、処罰範囲を明確にすることで(罪刑法定主義)、それにより国民へ「これをやったらいかん!」と知らせる目的・機能がある(秩序維持機能)。
これが、構成要件の役割である。
そして、上記「やったらいかん」ものとは、後述する「違法」行為であり、これが構成要件に類型化されたのである(徴憑的機能)。
構成要件には、客観的な面と主観的な面がある。
- 客観的な面は、実行行為、結果、因果関係及び「過失」における結果回避義務違反である。
- 主観的な面は、主観的違法要素である。
このように、刑法は、違法行為の積極的側面(処罰を肯定する要件)を構成要件として類型化することで、秩序維持を図っているのである。
そして、違法の残りカスとして残った消極的側面(処罰を否定する要件)である、
- 正当防衛
- 緊急避難
- 正当行為
を、違法段階で検討することになる。
(2) 責任で区別
法律は、それをやる必要があり(必要性)、かつそれをしても許される(許容性)といえるから、その存在が人権侵害とならず、正当化される1。
そして、上記の違法要素は、処罰をする必要性を担保するものである。
では、許容性はなにかというと、責任である。
いくら悪いことをしてしまったとしても、
- やるつもりがなかったり(故意)、
- いたしかたない事情があったり(過失なし)
- 精神的に未熟だったり(刑事未成年、心神耗弱・喪失)
していた場合、刑罰を科しても上記秩序維持機能は発揮できない。
ある人が、上記それぞれについて、
- 「思いとどまれるのにやった」
- 「気を付けることができたのにしてしまった」
- 「思いとどまれたり、気を付けることができる能力があったのにやった」
からこそ(=非難可能性)、
- 他の人が「私はやめとこ」と思ったり(一般予防)、
- 本人が「もうやらないようにしよう」と思え(特別予防)、
秩序維持が図れるのである。
そうすると、刑法は、
- 一体として処罰の必要性を担保する、構成要件&違法と、
- 許容性を担保する責任
というような構造となり、構成要件と責任は切り離されていると思える。
しかし、故意と過失は、非難の質が異なるよな。
だから、構成要件を「非難の質」という観点からより具体的にして、秩序維持機能を十分発揮するため、本来責任段階で検討するはずの故意・過失それぞれ、半分にぶっちぎり、構成要件段階にもってきて区別できるようにしたのである。
これが、
- 構成要件的故意と、
- 「過失」における結果予見義務(結果予見可能性)
である。
故意について具体的にみてみよう。
故意とは本来、責任段階に1個のものとしてあるべきものなのだが2、それを、
- 構成要件該当事実の認識・認容または意欲
- 違法性阻却事由に該当しないとの認識
に真っ二つにし、①だけを構成要件的段階に持ってきたのだ(構成要件的故意)。
そして、②は、責任故意として、責任段階で検討することになる。
詳しくは、下記記事参照。
過失は、結果予見可能性に基づく結果予見義務違反であり、これのみを過失と観念する立場を旧過失論と呼ぶ。
この立場に対して、予見可能性は程度概念であることから、これによっては過失犯の処罰範囲を十分に画することができないと批判して、一定の「基準行為を遵守したか」という違法性の要素を有する客観的基準で、過失犯の成立範囲を画するべきとする立場を、新過失論と呼ぶ。
判例は、新過失論である。
故意と同じように、過失も個別化のため、結果予見義務違反を構成要件にもってきており、これにより個別化されている。
2 構成要件要素
このように、違法行為が類型化され、構成要件的故意・過失により個別化された構成要件は、以下のような要素から成る。
(1) 行為
意思に基づく身体の動静である(自然的行為論)。
両者の概念の区別は、後述する実行の着手のところの、『「実行行為」と「実行の着手」との違い』というコラムで明らかにしている
(2) 結果
構成要件に定められた法益を侵害したことである。
(3) 因果関係
実行行為の危険が結果に現実化したか否かで判断する(危険の現実化説)。
(4) 構成要件的故意
構成要件該当事実の認識・認容または意欲をいう。
(5) 過失
過失とは、注意義務違反であり、その内容は、結果を予見して、その結果を回避すべき義務に違反して結果を惹起したことをいう(新過失論)。
(6) 主観的違法要素
構成要件に類型化された違法行為には、主観的なものもある。
これを主観的違法要素という。
例えば、文書偽造(155条1項・159条1項)の「行使の目的」は、この有無が法益侵害の大小に関係するので、主観的違法要素である(目的犯)。
窃盗罪の「不法領得の意思」も同じ理由から主観的違法要素である(争いあり)。
犯罪計画も実行の着手の判断において考慮される、主観的違法要素である。
第2 違法性阻却事由の不存在(←法益保護主義)
刑法は、法益と呼ばれるかけがえのない利益を守るために存在することは述べた。
これを、法益保護主義という。
そして、違法とは、社会的に許されない法益侵害とその行為をいう(折衷的行為無価値論)。
前述のように、違法性行為の積極的側面は構成要件に類型化されているので、違法性段階では、違法行為の消極的側面、すなわち違法性阻却事由について検討する。
これには、
- 正当行為(35条)、
- 正当防衛(36条)、
- 緊急避難(37条)
がある。
第3 責任の存在(←責任主義)
処罰が肯定されるためには、その必要性があるだけでなく、行為者を責めることができるといえなければならない(=許容性がある)。
これを、責任主義という。
責任とは、行為者が構成要件に該当し、違法な行為をしたことについて、非難できることをいう(規範的責任論)。
責任段階で検討すべき要素として、
- 前述した責任故意(違法性阻却事由に該当しないとの認識)の他、
- 違法性の意識、
- 期待可能性、
- 責任能力(39条・41条)
がある。
…
…
さて、ここまで構成要件の構造について説明してきた。
これで、実行の着手と不能犯について理解できる土台ができたから、それぞれについて、説明していこう。
実行の着手
刑法43条本文は、未遂を「犯罪の実行に着してこれを遂げなかった」ことと規定している。
ここから、未遂というためには「犯罪の実行に着手し」たことが必要となるとわかるが、これをいかに判断すべきかが問題となる。
この点について、結果を直接惹起する行為への着手に求める見解(形式的客観説)があるが、未遂犯の成立時期が遅すぎ、障害未遂・中止犯を認める余地がほとんどなくなり、妥当でない。
そもそも、未遂の処罰根拠は、法益侵害の危険であるから、構成要件的結果を生じさせる危険性が認められる行為の時点で、実行の着手が認められると解するべきである(実質的客観説)。
この見解を判例も採っているとされ、窃盗罪であれば、
- 住居に侵入後、金品を物色するためにタンスに近づく行為の段階で(大判昭和9年10月19日)、
- 電気器具店に侵入後、現金のあるタバコ売場の方に行きかけた段階で(最判昭和40年3月9日)、
未遂となる。
強姦罪の事案では、
- 姦淫に直接向けられた暴行ではなく、姦淫目的で被害者の自由を拘束するための暴行について(最判昭和45年7月28日)、
強姦未遂が肯定されている。
殺人罪では、クロロホルムを吸引させて被害者を失神させ(第一行為)、その失神状態を利用して被害者を自動車ごと海中に転落させて(第二行為)溺死させた事案において、
- 第一行為を開始した段階で、
殺人未遂が肯定されている(最決平成16年3月22日)。
上記クロロホルム事件は、行為者の「犯罪計画」、すなわち第一行為が第二行為を確実かつ容易に行うために必要不可欠であったこと、という書かれざる主観的違法要素が、実行の着手の判断に影響を与えた例である。
未遂の処罰根拠は法益侵害「行為」の危険であるところ、行為は「意思に基づく」身体の動静であるから、主観も併せてはじめて法益侵害の危険性が明らかになる。
したがって、主観的違法要素を行為の危険性判断において考慮するのは正当である。
では、故意はどうか。
司法試験受験界隈では、故意は構成要件の客観面である、実行行為(実行の着手)・結果・因果関係を判断した後、最後に判断されるもものとされているよな↓
引用元:構成要件要素とは?~「客観的構成要件要素」と「主観的構成要件要素」~
だが、法益侵害の現実的危険性は、行為者の主観を排除して判断することができるのかについては、争いがある。
この点について川端は、行為者の主観も考慮に入れてはじめて、
- 具体的内容をもった結果発生の危険の有無が判定でき、
- また、行為の個別化ができる
とする。
➀たとえば、AがBにピストルを突き付けている場合、Aの主観を考慮にいれなければ危険性は具体的に判定できない。
Aに殺意があれば、殺人の実行の着手があり、たんなる冗談であれば殺人の実行の着手は認められず、まったく違法行為は存在しない。
②さらにいえば、殺人の実行行為なのか、傷害の実行行為なのか、あるいは強迫の実行行為なのかは、行為者の主観をあわせ考えなければ判別できない
川端481頁(番号はかずが付した)
司法試験一般の書き方vs学者である。どちらが正しいか?
➀について、たしかに、殺人の故意があれば、行為者の身体はその目的の達成に適するように規制されることになるので、行為の客観的危険性に影響を与えるものと思える。
ってことは、故意は行為段階で検討するの?
客観と主観分けなくていいの?
ここは単なる言葉の問題で、学者が厳密に考えすぎているところだ。
受験生としては、本質に遡って、試験に適合するようにシンプルに理解し整理しよう。
そもそも構成要件該当事実の認識・認容を故意から切り離し、構成要件段階にもってきたのは、行為の責任非難の質が異なるからであった(②)。
そして、責任要素は、処罰の許容性を担保するものとして、必要性を担保する違法要素と区別されるべきものである。
そうであれば、故意を違法要素としても考慮するのは混乱を招き妥当でなく、区別したうえ、違法要素のあとの構成要件のケツで検討すべきである。
たしかに、故意は客観的危険に影響を与えるといえるが、故意は「犯罪計画」という、より大きな概念に含まれるものである。
「人を殺す」意思(故意)っていうのは、「クロロホルムを嗅がせて眠らせてからから車ごと海に転落して殺す」という意思(計画)の中に含まれているよな。
だから、「第一行為が第二行為をするにあたり必要不可欠か」という要件を検討する中で、故意も実質的に検討されるのである。
そこであえて「故意」というワードを持ち出す必要はない。
上記川端のピストル事例でも同じように、犯罪計画という名目で、実質的に故意を踏まえ危険性を検討しておけばよいのである。
そして、一般的な書き方通り、しれっと構成要件のケツの部分において、今度はちゃんと独立して故意を検討しておけば、試験委員にびっくりされることはない。
実際、クロロホルム事件の判決書でも、このように計画→故意という順番で検討されているから、見ておくといい。
では、いわゆる 間接正犯の事案、すなわち他人の行為が結果発生との間に介在した場合についてはどうか。
大審院大正7年11月16日は、被告人が致死量の毒物を混入した白砂糖を郵送したところ、被害者が毒の混入に気づいたため、食するに至らなかった事案において、
- 発送時ではなく、受領時
に実行の着手を認めている。
間接正犯の実行の着手時期(本件のような郵送事例)について、学説では、
- 利用行為の時点で実行の着手を認めるべきとする利用者標準説(発送時説)
- 被利用者が単独正犯であったならば着手が認められるであろう時点で着手を認める被利用者標準説(到達時説)
- 個々の事例における結果発生の現実的危険性の発生時期により、利用行為・被利用者の行為の時点どちらもありうるとする個別化説
が主張されている。
上記大正7年判決は、②か③を採用したものである。
➀が否定される理由は、本事例における毒入り砂糖を発送する行為の時点においては、被害者がそれを食べるのか否か不確実であり、未だ法益侵害の現実的危険性があるとはいえないからである。
では、②と③どちらを採るべきか。
この点について、実行の着手の処罰根拠を行為の具体的危険性とする以上、間接正犯の事例においても、具体的危険の発生時期を、事案ごとに実質的に判断して着手時期を決するべきである(③個別化説)。
理論的にも、
間接正犯の犯罪行為は利用行為という作為とその後の結果発生防止義務を内容とする不作為からなる複合的なものであり、したがってそれらを全体的に見て着手時期を判断すべき
引用元:本判決百選解説(佐藤琢磨)4・西原春夫『刑法総論』317頁 ※太線はかずが付した
といえる。
参考記事:間違えて出した郵便物の配達を止める方法!配達キャンセルはできます!郵便マン
もっとも、個別化説に対しては、不作為が問題となる時点で、行為者に作為可能性が認められない場合には、着手が認められなくなってしまうという批判がある。
しかし、個別化説によれば、
- 作為可能性が認められる最も遅い段階で着手を認め、
- まったく作為可能性がなければ、発送の時点で危険性を認めることになる3、
ので、この批判は当たらない。
このように、個別事例それぞれにおいて実質的に行為の具体的危険性が認められる箇所を判断し、それが認められた後が、因果関係の問題となるのである。
そうすると、因果関係の起点とされる「実行行為」とは、必ずしも一時点におけるものではなく、間接正犯や離隔犯4においては、行為と具体的危険の発生時点とにまたがる、作為と不作為との複合的行為であるといえる。
実行の着手の概念は、当該行為が結果発生の具体的危険を生じさせたときに処罰するという「段階を画する概念」であり、実行行為の開始時点と必ずしも一致させる必要はないのである(川端)。
(やれやれ、何でこういう本質以外に配慮しなきゃいけないのかねぇ)
なお、原因において自由な行為における修正説は、実行行為と行為を上図のように幅のある「広義の行為」と解することで、行為と責任の同時存在の原則に反しないことの根拠づけにしている。
この立場が妥当である。
不能犯
定義&問題の所在
犯罪を遂行しようとする者の行為が、外形的には実行の着手の段階に至っているようにみえても、実際には構成要件的結果を実現することが不可能であるため、未遂罪の成立が否定される場合を不能犯という。
結果実現不可能=行為に法益侵害の現実的危険性がない、ということである。
そこで、行為の現実的危険性を、行為者・一般人目線で判断するのか(具体的危険説)、裁判時に判明したすべての客観的事実で判断するのか(客観的危険説)いずれが妥当かが問題となる。
具体的危険説v.s客観的危険説←かず
この点について、未遂罪の処罰根拠は法益侵害の危険であるところ、法益保護主義からは法益とは現実に存在するものでなければならない。
折衷的行為無価値論における違法とは、➀法益を侵害する②行為に対する違法評価だから、行為の対象となる法益が、行為時の客観的状況において存在することが前提となるのである。
したがって、法益侵害の危険性が客観的に存在しないにもかかわらず、行為者や一般人が予見可能であったからといって未遂罪の成立を認める具体的危険説は、刑法の法益保護機能をないがしろにするものであり、不当な処罰の拡張であるから妥当でない(下図)。
法益保護機能、そして法益侵害結果の危険を処罰するという未遂の根拠からは、「危険発生が絶対にないとはいえない」場合(相対的不能)に未遂成立の可能性を認め、そうでない場合(絶対的不能)を不能犯と解するべきである(客観的危険説)。
そして、前者の相対的不能の場合、さらに法益侵害の現実的危険があるかを判断し、それが肯定された場合に未遂犯の成立が認められることになる。
具体的危険説は行為無価値論からの帰結、客観的危険説は結果無価値論からの帰結と一般に考えられている。
しかし、通説の行為無価値論は折衷的行為無価値論であり、客観的な法益侵害の基礎の上に成り立っている。
行為者の主観は、それ自体として法的意味を有するのではなくて、あくまで法益侵害との関係において法的意味を取得することになる
引用元:川端『刑法総論講義』(第3版)300頁
そうであれば、行為無価値論に立ったうえ、客観的な法益侵害の有無を、未遂と不能犯の区別基準としても、論理矛盾するものではない。
なお、後述するように、判例も客観的危険説に立ったものがあり、試験で書いても問題ない。
「危険発生が絶対にないとはいえない」(相対的不能)ってなんぞや?区別基準は?
以上のように、客観的危険説が妥当であるが、同説がいう未遂が成立しうる「危険発生が絶対にないとはいえない」(相対的不能)とはいかなる場合か。
この点について、客体の不能と方法の不能という2つの概念があり、分けて考える必要がある。
客体の不能=絶対的不能
客体の不能とは、客体の不存在のため結果発生に至らなかった場合である。
この場合、法益の主体が客観的に存在しない以上、法益侵害の危険の発生はありえないのであり、常に絶対的不能である。
方法の不能=区別基準が問題に
方法の不能とは、結果惹起の方法が不適切であったため、結果発生に至らなかった場合である。
この場合、法益主体自体は存在するのであり、相対的不能を認める余地が生じるので、いかなる場合に「危険発生が絶対にないとはいえない」(相対的不能)といえるか、区別基準が問題となる。
この点については、
- 仮に相対的不能が肯定された後は未遂の判断(現実的危険のあるなし)をし、
- それが否定された場合は犯罪不成立となるのであるから、
厳密な基準を設定する必要はなく、法益侵害の可能性が科学的に存在するのであれば、相対的不能といってよい。
Xが、電車内でAの財布をすろうとして上衣の右側のポケットに手を突っ込んだところ、財布が左側のポケットにはいっていたので、目的を果たせなかった事例についてみてみよう。
具体的危険説によると、一般人の見地からは左ポケットに財布が入っている可能性は予見可能である以上、窃盗未遂罪が成立することになる(大判大正3年7月24日)。
他方、客観的危険説においては、窃盗罪の不能犯を認めるのが首尾一貫するものとされる。
というのは、Xは右のポケットに財布が入っていると考え右のポケットに手を突っ込んだのであるが、事後判断による限り、左のポケットに入っていた財布をとることは不可能であったといえるからである。
引用元:川端『刑法総論講義』(第3版)513頁
しかし、窃盗の保護法益は財産権またはその占有であり、財産権の主体とは「その人」なのであるから、その主体にくっついているポケットである限り、左にあるのか右にあるのかは本質的要素ではない。
そして、上記意味での法益が現実に存在する以上、空ポケット事例は客体の不能事例ではなく方法の不能にあたる。
したがって、客観的危険説においても窃盗未遂罪が成立しうることになる。
百選判例は?
最判昭和37年3月33日
殺意をもって被害者の静脈に空気を注射したが、量が不足していて目的を遂げなかった事例において、「危険が絶対にないとはいえない(相対的不能)としたうえ、殺人未遂罪の成立を肯定した。
客観的危険説にたった判例である。
広島高判昭和36年7月10日
銃撃を受けた被害者にとどめを刺そうと、殺意をもって日本刀を突き刺したが、被害者はすでに死亡していたという事例について、「一般人も当時その死亡を知りえなかったであろう」として、殺人未遂罪を肯定した。
具体的危険説に立った判例である。
客観的危険説の立場からは、法益主体が死亡しており存在しない以上、科学的に危険発生の可能性はなく、絶対的不能である(客体の不能)。
よって、不能犯である。
すなわち、殺人の故意は死体損壊の結果の認識を包含していないので、
具体的付合説はもとより法定的符合説からも故意が阻却され、不可罰となる。
岐阜地裁判決昭和62年10月15日
被告人が、長女・次女と無理心中を図るため、両名を寝かしつけたうえ、ガスの元栓を開き、ドアや窓を目張りして締め切り、都市ガスを充満させたものの、友人が訪ねてきてこれを遂げなかった事例である。
弁護人が都市ガスは有害な一酸化炭素を含んでいないから、不能犯であると主張したのに対して、裁判所は、
- ガス爆発の危険や酸素濃度の低下により死の結果発生が十分生じうること
- 一般人もそれを認識しうること
を理由として、殺人未遂罪の成立を認めた。
本判決は、行為の手段として用いられた都市ガスが毒性のないものであったという方法の不能が問題となる事例であった。
➀は客観的危険説の理由付け、②は具体的危険説の理由付けである。
いずれにしても不能犯が否定される事例であるとして、立場決定に踏み込まなかったのであろう。
あとがき
「実行の着手ってなんぞや」ってところを理解するには、
「構成要件の構造・機能」を理解する必要があり、それには、「違法性・責任ってなんぞや」っていう根本にまで理解を深めている必要がある。
そういう根本に遡る思考力がない状態で合格して法曹になっても、実務・その基礎の人間関係で、表面的な波に流され一貫性を欠くグチャグチャ頭のメンヘラ弁護士になるよ。
そんなやついくらバッチがあっても、法的思考力がある者は負けない。
【メンヘラ❌パワハラ女弁護士に勝った!】
戦果
✅俺と出勤日ズラさせた
✅司法試験まで仕事頼まれなくなった
✅テクニックで司法試験に受かった奴より、法的思考力ある奴が強いという証拠ゲットこの成功体験は自信になった
戦記、ブログでシェアするから、乞うご期待 https://t.co/hsxVAi8nm6 pic.twitter.com/cjGiDIAsVB
— ウエノ@法務博士ナンパ師 (@uenotubuyaki) January 18, 2022
参考文献
- 山口厚『刑法』
- 川端 博『刑法総論講義』
- 刑法総論百選
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参考記事~かず屈辱の本試験問題~
本記事で整理した行為概念の理解が正面から問われた問題が、俺が実際に受けた平成30年刑法である。
本記事は、これをクリアするために書いた。
お陰で、モヤモヤをスッキリ解消し、刑法についての患いはなくなった。
具体的な問題を通じて、本記事の理解を確かめて欲しい↓
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