【頑張ることと、流れることと、咲くことと】『黒部の太陽』

こんにちは、こんばんは、ポケベジトレーナーの、カズシです。

え!かずくんはまだボケじじぃじゃないよ!
かずの彼女(先生)
かずの彼女(先生)
かず
かず
わかっとるわ!

自然農の勉強と、父親の農業の手伝いで忙しくて、ずいぶん久しぶりのブログ更新になってしまいました(Xをフォローしていただくと、僕の活動がストーカー並みにわかるよ!)。

本記事、そして本記事で紹介する『黒部の太陽』という作品は、あなたの、

  • 学校やめたい、会社やめたいけど、頑張ってやり抜いた方が良いのかな?
  • そもそも、頑張ることっていい事なのかな?

という問いに向き合い、思考を発展させるきっかけとなりますので、ぜひ最後まで読んでみてくださいな!

はじめに

さて、僕は今、「自然農法の父」と呼ばれる農哲学者の福岡正信氏が行っていた自然農法(泥団子農法)を復活させようと、父親のやっている化学物質を使いまくる慣行農業を手伝いながら、農薬にまみれながら、奮闘しています。

参考:「福岡正信について」福岡正信自然農園

僕は、農薬が大嫌いなんです。

人間にとって「雑」草であっても、命であり、その存在意義を否定するような行為は、「WE ARE PERFECT」を標ぼうする僕の信念に反するからです。

毎日が、自然と、人間の知(科学)のせめぎ合い。

「日本の夏、温暖化の夏」、農薬が忍び込む雨合羽のサウナの中で、僕は心が引き裂かれるようなキンチョーを味わい、ぐるぐる回る意識の中、”あっち”側に弾き飛ばされる寸前だったのです。

俺のやっていることは正しいのか?

すぐさま毒薬のスプレー・ガンなんか物騒なものを放り出して、平穏な日常に戻るべきじゃないのか?

しかし、仲間も一緒。頑張ってる。
僕だけ「帰る」と宣言して持ち場を放り出すことは、できなかったのでした。

結局、なんとか仕事は最後までやり通し、クーラーの効いた部屋で、やれやれ、やっと一息。

しかし、頭の中のモヤモヤは消えません。

「頑張る」っていい事なのか?

これまで哲学や心理学を学び、考えてきた僕は、一応、自分なりの行動基準を持っていました。

それは、「楽」をすること。

楽をすることは、父親の慣行農業でも、口酸っぱく(辛く)言われます。

大量生産と費用対効果が命綱の慣行農業は、とにかく、人間という経営資源をいかに効率よく動かせるかが命題だからです。

かず
かず
それで本当に”楽”になるのかは、今後詳しく述べたいと思います。

そんな難しいこと言わなくたって、人間、生まれたからには楽しく生きたいものですよね。

しかし、学校でも会社でも、何かを頑張っていたり、それで成果を出せばなおの事、褒めてもらえる。

反対に、ぼーっとしてれば、叱られてしまいますし、”怠け者””かまど消し””非国民”の烙印を押されてしまいます。

また、楽をしよう楽をしようとしていても、どうしても予期せぬトラブルが起きて、自分の意思や要望を押し殺し、何かを頑張ってしまう…

僕たちは、人生で常に付きまとう、「頑張る」という行為に対し、どのように向き合っていけばよいのでしょうか?

そんな悩みの中、僕はこの映画に出会ったのです。

そう、今日のお話は‥

『黒部の太陽』とその時代背景

映画『黒部の太陽』について

映画『黒部の太陽』【予告編】

関西電力は、黒部川上流に発電所を建設するため、太田垣社長総指揮の下、社運をかけて黒四ダムの工事を行うことになった。
はトンネルを掘るためにどんな犠牲も省みない父に反抗し、家を出て設計技師となっていたが、工事の現場を訪れた剛は、責任者の北川(三船敏郎)の熱意にほだされ、体の弱くなった父のかわりにトンネル掘りの指揮を執る。
しかし工事が進むにつれて犠牲者は増え、山崩れと大量の水がトンネルを襲い、剛らはダム工事の難しさを痛感する。
莫大な資金の投入と技術陣の科学的な処置の甲斐があり難所を突破。
剛は北川の娘・由紀(樫山文枝)と結婚。翌年2月、北アルプスを抜いてトンネルが開通。
その瞬間を躍り上って喜ぶ労務者たちの中で、北川は由紀の妹、娘・牧子の死を知らせる電報に接し、激しく慟哭した。
数年後、完成したダムの堂々たる姿に無限の感動を覚える

引用:アマプラ紹介文

1968年2月17日公開で、

  • 興行収入 – 16億円
  • 配給収入 – 約7.9億円(1968年の配給収入第1位)
  • 観客動員数 – 800万人

テレビドラマ化、舞台化、漫画化、関連作品と、その影響力は、立て板に水の如くです。

参考:wiki

主人公、岩岡剛(石原裕次郎)の父、源三( 辰巳柳太郎)は、トンネルを掘ることだけに人生をかけ、子どもを犠牲にしても、夫婦関係を犠牲にしても、ケガしてる自分の足を棒でひっぱたいても、切羽(トンネル掘削の最先端箇所)に向かって突き進みます。

彼のモチベーションの源は、「山を貫く瞬間の快感」。
完全にドーパミン依存です。

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そのブルドーザーのような「力強さ」のキャタピラに巻き込まれた熊谷組の土方職人は、次々と命を散らしていきました。

黒岩ダム建設工事での工事期間中に転落、トラックやトロッコなどによる労働災害で殉職者は171人にも及んでいます。

また、岩岡親子ら「熊谷組」が担当することとなった最難所、破砕帯擁する「大町トンネル」を指揮することとなったのが、関西電力の北川(三船敏郎)です。

かず
かず
破砕帯とは、フォッサマグナという日本列島の”折れ目”に溜まった新しい地層であり、水が集まるところです(後で詳述します)

彼は、大町トンネル完成を祝う開通式において、白血病の娘の悲報を受け取り、看取ることなく亡くしてしまうことになります。

なぜ、このような多大な犠牲を払ってまで、黒岩ダムは建設されたのでしょうか?

時代背景

当時、戦後の焼野原から高度経済成長へ立ち上がろうとする流れの中で、関西地方の電力不足の解消が喫緊の課題でした。

そのため、総工費は建設当時の513億円、関西電力の資本の5倍とも言われる金の血を流し、富山県の黒部渓谷の谷間に、

  • 高さ186メートル(日本一)、
  • 溜められる水の量は総貯水量は約2億トン(2リットルのペットボトルでおよそ1000億本)
  • 後に年間100万人近くの観光客が訪れる

バカでかい水力発電所兼ディズニーランドが必要とされていたのです。

引用:黒部ダムオフィシャルサイト

ダムを建設するためには、大量のコンクリートや鉄、建設資材を運ぶためのブルドーザーやクレーンなどが必要なのですが、黒部渓谷は北アルプスに位置し、自動車も入っていけないほどの険しい山の中にあったので、ダム建設は、まず材料や機械を運ぶ道づくりから始めることになりました。

建設当初は、道などありませんから、たくさんの人が重い荷物を背負い、険しい山を超えて、何度も何度も建設現場に足を運ぶことになります。

頼りの大動脈は、ダム建設地と長野県大町市を結ぶ「大町ルート」。

そのまた要となるのが、北アルプスを貫く5,430.6mの「大町トンネル(現・関電トンネル)」。
そして、その工事の中で最も難しいと言われていた扇沢(大町市)から2,604mの区間を、特命で担当したのが、映画では岩岡親子が所属する、熊谷組だったのです。

引用:Train Nostalgia

多大な人柱の上に当時の技術の粋を集め、黒部ダムは工期通り、1963年6月に完成し、日本を代表するダムとなりました。

黒部ダムは、一般家庭100万戸分に相当する電気を発電することができ、当時ひっ迫していた関西の電力不足にてこを入れました。

「偉業」「関電魂」「日本建築史に残る」…

その誉れを得るために「頑張って」死んでいった犠牲者は、果たして、天国で笑っているのでしょうか?

カズシの考察に入りたいと思います。

カズシ考察

戦争における社会構造との類似性

冒頭で剛は、黒部ダムの建設工事を血気盛んに引き受ける父源三に対し、今回の黒部ダムの工事の背景構造と、先の大戦のそれが類似していることを指摘し、引き止めています。

この問題意識は、その後も数回人物を変えて提起されますが、「時代が違う」という反論の下に鎮火してしまいます。

しかし、これは正確には反論ではなく、「今更遅い」「名誉や金が欲しい」「それしか生きがいがない」というエゴの声であり、感情論だと思います。

実は、黒部ダム建設は、戦争による電力のひっ迫に対応するため、本工事現場の下流において3回にわたって行われていました。

今より時代をさかのぼるわけですから、技術も機械も当然未熟です。

建設現場は地獄絵図そのものであり、ダイナマイトが自然発火するほど高温の岩盤に囲まれ、ふんどし一丁で煮えたぎる湯を踏んで、監督に棒で殴られる…

爆発事故をはじめ、出水、落盤、毒ガス中毒などにより、黒部ダムはもうすでに、多く命を飲み込んでいたのです。

戦中のダム建設の必要性も、戦後のダム建設の必要性も変わりません。

前者は「国が戦争で勝つための犠牲」で、後者は「国が経済競争で勝つための犠牲」です。

戦後、日本はアメリカから「自由」や「民主主義」が注射されますが、それらは個人の尊重(憲法13条)が主成分のはずです。

日本は、どうも中身の違う”まがい物”を打たれたようですね。

かず
かず
目先にエサをぶら下げて命を吸い取るのは、今も形を変えて行われているかもしれません💉…
かず
かず
農薬も…

頑張ることは是か非か?

北川は、熊谷組が破砕帯にぶつかって文字通り切羽詰まったとき、「人間は、金と、知恵と、時間さえあれば、何でもできる」と言って鼓舞します。

しかし、人間の力には限界というか、踏み込んではいけない領域はないのでしょうか?

北アルプスや破砕帯を産みだすフォッサマグナは、プレートテクトニクスという地盤の動きであり、地球の命の自然な流れです。

日本列島を分断する巨大地溝「フォッサマグナ」の謎!

それに逆らうのは、非常な苦労です。

労災により死傷者も出ることも容易に想像できますし、子どもを爆死させたり、病気の子どもについてあげられなかったりします。

かず
かず
北川 の「安全第一」の言葉は虚しく聞こえます

人間の目指すところが、個人の尊重、僕なりの言葉で言えば「裸の魅力で楽しく過ごすこと」にあるとするのであれば、このような事態に突き進むのは、論理的に不合理です。

それでもなぜ、人は突き進むのか?

それしか知らないのです。
感情がそれに追従するのです。

進化とは、物理的な領域を拡大していくことや、先端技術を開発することばかりを意味するのではありません。

知とは、人間がより幸福であるためにはどうすればいいのかという、絶えざる問いかけです。

それは、過去にさかのぼり、先人の知恵を発掘することも含む概念なのです。

もっとも、人間は現在を生きる有限な生物ですから、いくら知を広げても、不合理な状況の中、どうしても頑張ってしまう場合や、頑張らざるを得ない場合もあるでしょう。

しかし、目指すところを見失ってはならない。

現在の不合理な状況の中にあって、どうすれば楽をできるか。
どうすれば、できるだけ楽ができるか。

本作で、人間に立ちふさがる壁を貫いたのは、金の力でも、ダイナマイトの力でもありませんでした。

奇跡をもたらしたのは、置かれたところで咲くという、意志の力だったのです。

そして、自然な意志は、繋がっていくのです。

作品へのリンク

映画版

小説版(原作)

その他参考リンク

 

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