オス!かずだ!
突然だが、なぜ、あなたは法律を学んでいるのだろう?
それは大切なことだ。
しかし、そもそも、資格試験を受るのは、その後法律を使って仕事をするためだよな?
実務にでると、受験で培った知識には直接あてはまらない、未知の問題に多数出会う。
対して、司法試験やその他の法律系資格試験は、所詮は試験。 実務とは乖離がある。
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試験では必要とされなくて、実務においてなくてはならないもの。 それが、法律知識の裏側にある普遍的な法則を理解し使いこなす思考力、すなわち「法的思考力」(法的思考力)である。
法的思考能力を身に着けるには、
- 法って何なのか(法の要素)
- 法は何を目指しているのか(法の目的)
- 法の目的は、どのようなプロセスを踏んで実現するのか(法的思考プロセス)
を理解しなくてはならない。
じっくり時間がとれる貴重な受験期間における日々の勉強で上記の点を意識し、育んでいれば、合格後に未知の問題にぶつかった時も、 右往左往して先輩弁護士にすがるのではなく、 自分で調べ、自分なりの思考を示してから、アドバイスを求めるということが可能になる。
そうすると、思考の質をどんどん育んでいくことができ、未知の問題に動じないで、妥当な対応策を提案できる優秀な法律家として、自立することができるだろう。
法曹人口増加とAIの発達により、「受かっただけのロボット法曹」はどんどん淘汰されていく。
そうならないために、受験勉強を頑張っている君も一旦視野を広くとって、法とはなんぞやということころを押さえておいた方がいい。
それにあたって、とってもおすすめの書籍が、言わずと知れた民法の大先生、我妻栄の書籍である。
この本は、法律家や民間人に向けて、具体例を交え法の本質について平易に語った講演を文字起こししたものであり、以下の2編から成る。
- 「法律における理屈と人情」 →法の解釈・適用における、一般的確実性と具体的妥当性の調和を説く
- 「家庭生活の民主化」 →家長の権力に基づく家庭から、対等な個人の協調に基づく家庭への転換を説く
民法大改正を経ても、彼の影響は財産法・家族法問わず未だに大きく残っているし、その法的思考法には時間・科目を超える普遍性がある。
超一流がいかに法を解釈してきたのか、そのプロセスを、時間がない君にも、大枠がわかるようにポイントをまとめたので、ぜひここで押さえておこう!
本記事は、前編として、「法律における理屈と人情」を取り扱う。
目次
前編『法律における理屈と人情』
法律家の任務は、理屈と人情の調和である
我妻先生は、「法律家の任務とは、人情に適った常識的な結論を、法律論の一般的確実性を崩さずに通るようにすることである」旨述べている。
どういうことか。 以下説明しよう。
理屈(一般的確実性)は公平な結論を導けるが、人情(具体的妥当性)に反することがある
突然だが、次の事例を見てくれ。
A市は、建築基準法55条1項に基づき都市計画で、第1種低層住居専用地域における高さ制限を10mと定めている。
A市a地区は、第1種低層住居専用地域であるところ、ある大学の学長が、a地区に学生寮を建てた(以下「本件学生寮」という。
その寮は、学長が生徒の安全を考え一流の建築士に設計を依頼してできた、新技術を使った倒壊の危険が極めて少ない堅牢な建物であったのだが、ちょっとした手違いにより、10㎝だけ、高さ制限より高かった。
つまり、建築基準法55条1項に反する違法建築物である。
A市長は、同条違反を理由として、学長に「屋根を10㎝切れ!」と命令した(建築基準法9条1項)。
学長は、この命令に納得できず、君(弁護士)の事務所に相談に訪れた。
なお、本件学生寮は、学生を受け入れ満室となり、使用が開始されている。
参照法令
〇建築基準法 55条1項(高さの制限) 第1種低層住居専用地域又は第2種低層住居専用地域内においては、建築物の高さは、10メートル又は12メートルのうち当該地域に関する都市計画において定められた建築物の高さの限度を超えてはならない。
〇同法第9条1項 特定行政庁は、建築基準法令の規定又はこの法律の規定に基づく許可に付した条件に違反した建築物又は建築物の敷地については、当該建築物の建築主、当該建築物に関する工事の請負人(請負工事の下請人を含む。)若しくは現場管理者又は当該建築物若しくは建築物の敷地の所有者、管理者若しくは占有者に対して、当該工事の施工の停止を命じ、又は、相当の猶予期限を付けて、当該建築物の除却、移転、改築、増築、修繕、模様替、使用禁止、使用制限その他これらの規定又は条件に対する違反を是正するために必要な措置をとることを命ずることができる。
一般的確実性とは、法律はすべての場合に、画一的に適用すべしという要請である。
この要請に忠実に従えば、上記事例で学長は、せっかく完成した最新の堅牢建築物の頭を10㎝ちょん切らなければならない1。
しかし、これが妥当な結論といえるだろうか?
- 違反はたった10㎝で、周りの住居環境との調和を害しているとはいえないし、
- 堅牢度は十分で倒壊の危険もない。
- また、すでに学生の受け入れを終えて使用が開始されており、屋根を切るとなると学生に一旦出て行ってもらわなくてはならず、その労や代替施設の準備、金銭賠償の問題でややこしいことになる。
そうであるのに、ちょん切れというA市長の対応は、あまりにも杓子定規で融通が利かないやつ(人情がない)と批判できそうである。
しかし、杓子定規は法律の生命なのだ。
なぜなら、このような杓子定規な対応を否定すると、以下のような不利益が生じるからである。
具体的妥当性は、人情に適する結論を導けるが、不平等な判断が横行するおそれもある
たとえば、「低層住居専用地域の建築物は、構造の強度や周りの住居の調和を踏まえ、妥当な高さにしなければならない」という抽象的な内容の法律を作ったとする。
本件学生寮は、同条によれば適法となるであろう。
これならば、人情(具体的妥当性)に合致した、常識的な解決となる。
法の本質の一方の側面は、人情に適した具体的に妥当性な結論を導くことを要請する。
しかし、すべての者が、本件の学長のように、生徒想いであるとは限らない。
多くの者が、適当な安い業者に頼んで、「まあこれで大丈夫だろう」と、脆弱で周囲との調和を害するような建物を作ることは必定である。
そうすると、結果は目にみえているな。
しかしそうすると、行政は建築の専門家を雇い、一件一件の申請ごとに現地に赴いて、建物の特性に応じた綿密な調査をせざるを得なくなる。
そうすると、行政の仕事はパンクしてしまう。
また、金や権力がある奴は、ワイロを送って審査を通したりなどし、不平等・不公正な判断が横行してしまう。
…
…
そこで、建築基準法55条のような具体的な規定による、一般的確実性の確保が本領を発揮するのである。
このような規定があれば、万人に対する公平な判断が担保され、住人の財産・生命を保護できるのである。1
理屈と人情を調和させる手法~事実の操作と法解釈~
いや違う。 追うべきは、二兎である。
冒頭で述べたが、「法律家の任務とは、人情に適った常識的な結論を、法律論の一般的確実性を崩さずに通るようにすること」なのである。
これを実現するのが、
- 事実の操作
- 法解釈
である。
事実の操作
同著に出てくる、本件と類似の事案において、行政は、「地面を盛って、そこから計り直せば、許してやる」と答えたという。
相手に譲歩を求め、前提の事実を操作する。
法律のワクを崩せないけど、何とかしてちょん切るだけはの防ぎたい、という苦悩の現れが見て取れるな!
もっとも、これは行政指導のレベルの話であるから、事実を操作することが可能なのである。
裁判になってしまうと、判決前に裁判官が指導することはできないから、次に述べる法解釈を用いることになる。
法解釈
法解釈とは、法文の意味を明確にする作業である。
裁判の過程は事実の認定と法の適用に大別されるが,法の解釈は法の適用に際して法文の意味を明晰化する作業である。 解釈をまったく必要としない明確で一義的な法文はごくわずかであり,また法が社会観念の変化に対応しつつつねにもれなく規定することはできないから,法の解釈は法の適用に不可欠の作業であり,古くからさまざまな解釈技術が考案されてきており,そのうち伝統的には文理解釈と体系的解釈ないし論理解釈に区分されてきた。
引用元:コトバンク
形式的な文理解釈によっては、妥当な結論が図れない場合に、一般的確実性を崩さないように配慮しつつ、できるだけ人情に則した結論を導きうるよう解釈する。 これを、論理解釈という。
ここで大切なことは、条文の存在理由、すなわち立法趣旨に立ち返ることである。
たとえば、Aさんの家の近くのある木に、「馬を繋いではならない」という立札があった。
この立札の存在理由は、例えば次の二つが考えられる。
- 木の周辺に、動物がウンコをしてクサイから
- 馬は蹴って危ないから
1であった場合、馬だけでなく、例えば牛も、つないではいけないと論理解釈することができる。 こいつらもデカめのうんこをするからである。
他方、2であった場合、牛はめったに蹴らないから、繋いでおいても怒られないかもしれない。
1は、趣旨が共通してあてはまるという理由で、「馬」という法律要件を「牛」に対しても適用している。
このような解釈を、類推解釈という。
他方、2は、趣旨を踏まえれば「馬」でないものはすべて許されると、反対の意味で法律要件を解釈しており、反対解釈と呼ばれる。
このように、法解釈は、法律の趣旨に遡り、そこから文言に下るという精緻な論理のスジを辿って行われなければならない。
そうしないと、恣意的な解釈を許し、一般的確実性が害されるからである。
このように、法解釈は、一般的確実性を維持しつつ、具体的妥当性を図るという法の二つの側面を調和する営みなのである。
だから、我々は、
- ただ「形式的に法を適用すりゃいいや」という態度ではなく、人情に寄り添う感受性、共感力を養わなければならない。
- また、「妥当性な判断をすりゃいいや」と文言をないがしろにするのでなく、その枠を尊重し、論理を崩してはならない。
この道は、苦難の道である。
だが、逃げてはならない。
それが、「人間」である法律家の仕事だからである。
刑法には、「罪刑法定主義」というものがある。
これは、どのような行為が犯罪とされ、それによりいかなる刑罰が科せられるかは、あらかじめ明文の法律によって定められていなければならないとする近代刑法の基本原則である。
その趣旨は、自由保障機能にある。
すなわち、犯罪と刑罰が明確にされることによって、国民がそれ以外の行為をなす自由が明確にわかるようになり、それにより自由な活動が保障される、ということである。
刑罰というのは、人を何十年も閉じ込めたり、日本の場合は生命を奪ったりすることを許す、かなり強い効果がある。
だから、そのような重大な効果を国家権力により濫用させないために、あらかじめ国民(=国会・法律)によるコントロールすると決めたのである。
だから、刑法の解釈においては、法文から離れる類推解釈は禁止されている。
他方、法文の意味を拡張するという拡張解釈は許される。
両者の違いは、程度問題である。
前編まとめ
いかがだったであろうか。
まとめると、
- 法の要素には、一般的確実性と具体的妥当性があり、どっちか片方だと不都合が生じる
- 一般的確実性は、万人に公平であるが、人情を欠く結論になることがある
- 具体的妥当性は、事案ごとに柔軟に妥当な結論を下しうるが、恣意的な判断や汚職を招く
- 法律家の任務は、一般的確実性と具体的妥当性を調和させることであり、その手法には、事実の操作と、法解釈がある。
- 法解釈においては、趣旨に遡り、精緻な論理を辿ることが、一般的確実性から要求される
この観点があれば、日々の勉強で、判例や学者の法解釈が法の2つの要素を満たしているか(優れた解釈をしているか)を見抜くことができる。
最高裁のヤバさがわかるな!
そして、優れた解釈と言えないものに対して、批判したりより良い解釈はどのようなものか選択したり自分で考えだしたりできるようになる。
そうすると、冒頭で述べた、「自分の頭で考えられる法曹」になることができるのだ。
一般的確実性と具体的妥当性の調和、意識して勉強していこう!
…
…
次回の後編は、「家庭生活の民主化」を扱う。
ここでは、
- 個人の尊重と平等が保障された新憲法の下で、我々はどのような家庭を築いていくことが期待されているのか、述べられている。
- また、この記事で紹介した「一般的確実性」がなぜ尊重される必要があるのか、もう少し深ぼって、民主主義的観点から説明されている。
現行家族法の根っことなり、また法解釈の理解をさらに深める情報であるから、見逃さないようにチェックしておいてほしい。
では、また!
参考文献
法律における理窟と人情 我妻栄
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