オス!かずだ!
「子供や後輩を注意し反省を促すことがあるけど、言うこと全然聞いてくれない…」
という方。
ガミガミいってても、本心から反省をさせないとないと、人は変えられないんだ。
じゃあ、学ぼう(汗)
ところで、日本では一昔前、「永山事件」という日本中を震撼させた4件の連続ピストル殺人事件がおきた。
その裁判で示された死刑の基準である「永山基準」は、その後の死刑判決でも引用され、死刑を正当化する理由付けとなり、日本の刑事裁判で重すぎる意味を持つに至っている。
永山は、自身の犯行は貧困に原因があり、それは社会の責任であると主張した。
しかし、永山を裁いた裁判所は、しきりに永山に反省を促し、素直に裁判を受けない永山の態度を責任転嫁と断じ、死刑にして臭い物に蓋をしてしまった。
善良な一般市民である私たちに関係なくない?
「何で人って非行に走るんだろう?」という本質・原因をしらなきゃ、非行やミスをする人を改善をさせることができないし、そればかりか「反省」なんかさせると大変だ。逆効果になる。
それって日常生活での支障が多大だし、その積み重ねは「犯罪」にまでいく可能性も0ではない。
犯罪までいかなくても、家族や会社の人間関係を良好にしていくことはできないだろう。
殺人という非常に大きくわかりやすい事例を題材にすることで、本質を抽出しやすくなり、日々の出来事に応用することができる。
その本質とは、
- 非行の原因(反省させてても改善に繋がらない理由)
- 他人に心から反省してもらう方法
という普遍的な「法則」である。
本記事は、以下の二冊を参考文献として、永山事件を題材に上記法則を理解し、人生に役立てていこうという企画である。
著者の堀川は、広島のテレビ局に務めていたとき、山口県で起きた「光市母子殺害事件」を取材し、死刑判決に市民から「拍手と歓声」が湧き上がった現場を目撃した。
そして、「原爆が落とされたヒロシマで、1人の人間が処刑される事実に対して、喜びで迎えるとはどういうことか」という違和感を感じていた。
そんなとき、同事件の死刑判決で引用されていた永山事件に触れ、一つ徹底的にこの違和感を解明しようと、永山事件に挑むこととなった。
本書は、永山が死刑執行を受けるまでに遺した100時間を超える録音テープを入手した著者が、少年が連続射殺事件へ向かう心の軌跡をくっきりと浮かび上がらせたものであり、「いける本大賞」を受賞している。
著者、岡本は、殺人などの最も重い犯罪を犯し、かつ再犯傾向のある者を収容する「LB]指標の刑務所において、刑務官などの職員に対して指導・助言する役割を担う篤志面接委員の一人である。
引用元:『反省』させると犯罪者になりますよ(その1)kosodate media
元立命館大学産業社会学部教授。臨床教育学博士。
日本の刑事手続きにおいて、加害者に安易に反省を求める傾向に疑問を投げかけ続け、「反省を求めない方法で本当の反省に導く」手法を確立するに至っている。
多くの「矯正不可能」と言われた受刑者を更生に導いてきたが、2015年惜しまれつつ他界。
本記事は、前者を解説する前編の「原因篇(上記➀)」、後者を解説する後編の「更生編」(②)という2部構成になっている。
本記事の内容を理解していないと、人を変えるプロセスが一生わからず、欲求不満を抱えたたまになる。
そして、そのような向上心の無い人間は、神様から社会的にも肉体的にも「いらんな」と死刑判決を下されて早々に退場を命じられるだろう。
本記事は、膨大かつ複雑な永山事件の本質を抽出し、平易な言葉でわかりやすく整理しており、コスパ最高で貴重な学びが得られる。
ぜひ、この機会を逃さないで、学びつくしてほしい。
では、前編の「非行の原因篇」のスタートだ!
まずざっくり一言で、本質をバシッと押さえよう!
その後、その本質の中身を説明して、腑に落としてもらう。
目次
非行の原因ざっくり一言~愛情不足~
非行の原因は、絶対的存在に愛情を注がれなかったことにより、「他者と共に生きる自分」を作り上げられなかったことにある。
下図の左側(赤字)を見て欲しい。
加害者は、幼少時に家族(特に親)から愛情を注がれず、体罰を加えられていたり、ネグレクトされていることが多い。
その攻撃により生じた反撃のモチベーションは、親に向かうことはない。
なぜなら、親は子供にとって生きていく上で絶対に必要な存在であるから、親に反旗を翻すことは捨てられるリスクを冒すことであり、できないからである。
その結果、子供に溜まった負のエネルギーは、自分自身や自分より弱い者を攻撃することで発散される。
それが、非行、犯罪の正体である。
このように、加害者はもともとは被害者であったのに、その「被害」の部分をすっ飛ばして、「反省しろ!」と強制することは、加害者内に溜まった負のエネルギーを増長させる「さらなる攻撃」にほかならず、表面的に反省を引き出せてもそれは心からのものではない。
そのエネルギーは、再び別の被害者を探し出すことだろう。
それは、
- 再犯
- 次の世代に負のエネルギーを受け渡す「世代間連鎖」
という形をとる。
終わらない犯罪確変スパイラル突入である。
このスパイラルから抜け出すには、表面的に反省を促し「被害者の気持ち」を考えさせるのではなく、
加害者の「被害者としての側面」を尊重しながら、「なぜ、被害者の気持ちが考えられないか」を一緒に深ぼっていくことが必要である。
この正しい改善策は「カウンセリング」という手法であり(上記図右側の青字)、永山事件において精神鑑定を実施した石川義博という医師が用い、また後編で紹介する『反省させると~』の著者岡本も用いている手法である。
また、石川医師はカウンセリングだけでなく、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念を、永山事件を契機に日本に持ち込んでいる。
まさに、日本精神臨床医学界の先駆者といえる(このイケてるおっさん)。
これら当時最先端の臨床心理スキルをふんだんに用いたうえ、278日もの長期にわたって行われ完成した「石川鑑定」は、永山裁判で無期懲役を言い渡した高裁判決に多大な影響を与えた。
それだけでなく、自暴自棄に陥り死ぬことばかり考えていた永山をして、「一番成績の良い子が一番成績の悪いを子を教える塾を作りたい」という夢を持たせ、「生きたい」と言わさせしめた希望の結晶である。
石川・岡本両氏が駆使するカウンセリングの具体的な手法については、後編でバッチリ紹介する。
が、まずそのまえに前編で、永山がどのようにして殺人にいたったのか、永山事件とそこに至る彼の人生を追っていき、
- 「愛情不足」が非行の原因であること
- その根本にアプローチしないと、問題は永久に解決しないこと
をしっかりと腑に落としておこう。
永山事件~日本列島震撼の連続射殺魔降臨~
その4件の殺人事件は、昭和43年(1968年)10月から11月にかけての、わずか26日間に起きた。
- 10月11日…東京でホテルのガードマン射殺
- 10月14日…京都で民間の警備員射殺
- 10月26日…函館でタクシー運転手射殺
- 11月5日…名古屋でタクシー運転手射殺
殺害現場は全国にわたり、神出鬼没の連続射殺犯は、次にどこに現れるのか、人々は震え上がった。
警察庁は4つの殺人事件を同一犯による犯行と断定、総力をあげて全国配備で犯人のゆくえを追ったが、不可解な点が浮かび上がった。
犯行の動機である。
犯人は、東京と京都の被害者から1円の所持金も盗んでいなかった。
特に京都の被害者は、人前で万札を数えるのを好むという変った癖があり、その日も首から22万円が入った財布をぶら下げていたのであるが、財布は手付かずのまま現場に残されていたのである。
犯人の動機は何なのだろうか。
…
…
半年後、不可解な連続射殺事件は急展開を迎える。
昭和44年(1969)4月7日、午前4時半をまわった東京・原宿。
その小さな体の少年は、明治神宮の森を背に、原宿駅近くの土手に座っていた。
右手には、拳銃。
その銃口は、自らの頭に向けられていた。
少年は、息の根を止めて引き金を引いた。
だが、拳銃は答えてくれなかった。
- 弾が湿気っていたのか…
- もしかすると、自分は最後まで引き金を引けなかったのではなないか…
後になって少年は振り返るのである。
少年は重い腰をあげ、土手から降り、ほとんど感覚のなくなった足を引きずるように歩き出した。
しばらくすると、前からパトカーが近づいてきた。
この瞬間から、永山則夫の人生に、多くの人間の眼差しが向けられることになるのである。
永山事件の全体像、その後の裁判の流れは↓のNHKドキュメンタリーが分かりやすい。永山本人、石川医師の生の声を聴ける。
永山の人格形成に圧倒的な影響を与えた極貧×虐待幼少時代の家族関係・エピソードがよくまとまっており、イメージも持てるから、この動画を見てから本記事を読めばかなり理解が深まる。
安易な「反省」を求める日本の刑事司法
動機の表面をなぞる取調官作「要領調書」
引用元:逮捕されたらどうなる?(その4) -調書って何ですか?【1】名古屋の弁護士・隼綜合法律事務所ブログ
日本の刑事裁判において、刑事や検察官が作成する「調書」という書面が大きな力を発揮している。
その作成過程はと言うと、取調官が作った犯罪ストーリーを容疑者に読み聞かせて同意を求め、容疑者が「はい」と答えれば、供述調書には「私が〇〇をやりました」と一人称で記載する、というものである。
このようにしてできたストーリーは取調官の意向に沿ったものとなりやすく、冤罪の温床とされている。これを要領調書という。
実際、永山は、昭和44年4月に逮捕されてから、裁判が始めるまでの4か月間、取調官の描く「金欲しさ」による強盗殺人というストーリーにまったく逆らわなかった。
そして、裁判がはじまったときも、調書の任意性や信用性を一切争わず、これが後に実質的に死刑判決を下す最高裁での審理に至るまで、最も信頼できる証拠として威力を発揮した。
しかし、後の「石川鑑定」で明らかにされるように、犯行の真の原因は金という表面的なものにはなく、そこには、
- 家族、特に母親にネグレクトされたことによる憎悪
- 社会から福祉の手が差し伸べられなかったことによる日本社会への不満
- 上記原因に基づく自己重要感の喪失
- 若さ、貧困による教育機会喪失を原因とする混乱と無知
- 疲労、飢え、焦り
など、多くの考慮されるべき事情があったのだ。
上記のような事情の存在は、逮捕後の永山の以下のような態度からから垣間見える。
すなわち、逮捕後に母親が面会にきたとき、永山は強く拒絶し、憎悪をむき出しにして、「おふくろは俺を3回捨てた」「どうして、おふくろは俺に冷たかったのか」と発言している(➀。永山は真冬の網走に置いてけぼりにされ、寒さと飢えで生死の淵をさまよった経験をしている。詳しくは後述する)。
さらに、公判では、
「(犯行の動機は)貧乏が憎かった(②)から東京プリンスホテルへ行ったら、偶然ガードマン(被害者A)が出てきてああいうことになった。
それ以降は惰性でやった(⑤1)。
死刑は怖くないし(③)、情状してもらいたくはない。
情状なんかしても被害者4人と(死刑になる)自分の命は帰らないが、あの事件を起こしたことで東拘大1で勉強し、『なぜ自分のような者が生まれたのか』をわかることができたから、事件を起こして良かったと思う(④)。
自分は死刑になっても構わないが、自分のような輩を二度と出さないような社会にしてほしい」(②)
引用元:永山則夫連続射殺事件(wikipedia)※注、太線、番号はかずが付した
と陳述している。
さらに③についていえば、永山は逮捕当時から自殺することばかり考えており、看守のスキをみては、脱いだシャツで首を絞め自殺しようとしたという。
本来、このような事情を拾い、その背景を明らかにして表現してあげるが精神鑑定の役割であるはずなのだが、次に述べる「新井鑑定」はまさしく「荒い鑑定」であった。
荒い「新井鑑定」
1回目の精神鑑定は新井尚賢(東邦大学医学部教授)が鑑定人として指定された。
鑑定書はそれなりのボリュームがあり、必要な鑑定事項をそつなくこなしていた。
しかし、永山本人が協力していないせいもあるだろうが、記載された情報の多くは供述調書に頼っていた。
さらに、一番大事な永山の生い立ち部分はと言うと…
というものであった。
そして、デスクの上にあった赤ペンで「なぜ、取り上げないのか」と思わず大きく書きなぐったという。
石川鑑定によって明らかになった殺人の真の原因~💀永山家の秘密💀~
髪の毛?耳当て?石川医師とは何者か
髪型が犬みたいでカワイイ石川医師について、少し説明しよう。
東京八王子医療刑務所の技官として、医務部長課長を務めていた1973年夏、38歳の石川は名も知らぬ弁護士からの電話を受けた。
「永山則夫の精神鑑定を、先生にお願いしたいのです。」
石川はロンドン大学への2年間の留学を経て帰国し、お礼奉公の意味もあり、この医療刑務所に籍を置いて、精神障害を持つ受刑者の治療にあたっていた。
しかし、依頼はその場で断った。断る理由には事欠かなかった。
- 永山は聞くところによると、獄中で自殺未遂を繰り返しており、死ぬことばかり考えている者が精神鑑定に協力するはずがないと思った。
→機械的なテストにあてはめるだけで、短期間で被告人を診断する医師もいるが、そんなことはしたくなかった - しかも、相手は無差別に4人を射殺した連続射殺魔であり、その極悪非道なイメージは度重なるマスコミの報道で石川にも刷り込まれていた。
→正直、避けたかった
それでも、何度も食い下がってくる弁護団。
とりあえず記録だけでも読んでみることにした石川は、永山の壮絶な生い立ちを知ることとなる。
- 幼い頃、母親に捨てられている。
- 父はばくち打ちで放蕩し、ほとんど家庭に寄り付かないまま横死。
- 裁判には兄弟の誰一人姿を現さない。
- 家族や親せきに精神的な疾患を抱えた者が複数いる。
- 小学校・中学校共にほとんど不登校。
- 状況してから就いた仕事が半年以上続いたことがない。
- 証人尋問の面々を見ても、永山が深い人間関係を結んだと思える対象が見られない。
少年を巡る厳しい事実の羅列は、石川の関心を惹かずにいられなかった。
石川は、生涯の師と仰いだ、精神分析医、土居健郎(1920~2009)のスパルタ指導を思い出していた。
土居は、日本人の人格構造を「甘え」という視点から分析し、その病理の研究で知られる日本の精神医学の大家である。
独自の視点で日本人論を展開した彼の代表作『甘えの構造』(弘文堂、1971年)は大ベストセラーとなり、世界各国で翻訳された。
この書籍のレビューは、後編で行う。
永山の鑑定依頼から遡ること12年の1961年、石川は東大医学部精神医学教室に入局していた。
そして、深く失望していた。
自身が研究していた「統計学的に犯罪者をカテゴライズして犯罪の原因を追究する」という手法が、現実の患者を前に全く効果がないことを思い知り、打ちのめされていた。
そんなときに出会ったのが、土居である。
土居が大学院生のために、精神病の症例を研究するゼミ、通称「土井ゼミ」を開くことになったという話を聞き、石川は藁にもすがる思いで参加を申し出た。
土居の研究会では、事前に選ばれた報告者が自分が担当している患者の症例や家族歴、治療経過、行き詰っているポイントなどについて報告し、それに対して土居が次々と質問を投げかけていくというスタイルである。
「患者の最初の言葉は何だったか」「患者はさらにどう答えたか」「それで君は何と言ったの?」といった具合に、患者と治療者との間に起きた事柄を次々と問うていき、患者の全体像を少しずつ浮彫にしていく。
土居は、あいまいな回答には容赦しなかった。
質問を重ねる土居の迫力は、まさに真実に迫るまでの凄まじい迫力にみちていた。
次々と浴びせられる詰問に、報告者は不意をつかれ立ち往生し、汗ダラダラになった。
答えに窮しても、さらに厳しい指摘がされ、中には泣き出してしまう者もあった。
しかし、こうした数時間にも及ぶやりとりの中で、患者が本当に抱えている問題が明らかになり、治療の方向性が示されていったのだった。
…
…
土居ゼミで石川が学んだのは、患者の悩みを出発点にして、患者の話に耳を傾け、時間をかけて一人の人間とじっくり向き合っていくというスタイルであった。
冒頭でさらった述べた「カウンセリング」という手法である(後編でじっくり説明する)。
「こんなのでは永山の真実には迫れない」、「自分の力を発揮すべき場所はここだ」と感じたのだろう。
石川は、依頼を受ける決心をした。
そして、上記カウンセリングを用いて行った鑑定及びその鑑定書が「石川鑑定」であり、
- 控訴審で一審 の死刑判決を破棄、無期懲役判決を下す最大の根拠となる。
- また、永山が死刑執行の最後まで手元においた数少ないものの一つであり、「生きたい」「償いたい」と思わせる希望を与えるきっかけ
になっている。
そのような石川鑑定は、どのようにしてできたのだろうか。
石川鑑定
鑑定を引き受ける条件として石川医師は弁護団に、永山を自分が勤務する八王子医療刑務所に移し、鑑定を集中して行えるようにしたい求めた。
いわゆる「鑑定留置」である。
新井鑑定では鑑定留置はざずか8日間だったが、石川は最低2か月は確保して欲しいと申し出た。
19歳の少年が次々と4人を殺害するという重大な事件。
そこには相当な事情が積み重なっているはずであり、短期間で成し遂げられるものではないとと確信していた。
1973年11月28日、裁判所は永山の再鑑定を命じる決定を下した。
同月以降、審理は約1年5か月間にわたって一時中断し、石川が鑑定の延長を申し出て半年間にわたって永山から聞き取りを行い、青森を訪れて永山の母らからも話を聞いたほか、永山自身も取り調べの時とは一転して石川に対しては自らの生い立ちや事件までを語った。
1974年8月31日、裁判所に「石川鑑定書」が提出された。
石川が完成させた鑑定結果(「石川鑑定」)は当時、日本ではほとんど知られていなかったカウンセリングの手法、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の理論を用いたものであり、その概要は、
「永山の出生以来の
- 劣悪な環境
- 遺伝的条件
- 思春期の危機的心性
- 沖仲仕などの重労働や放浪による栄養・睡眠傷害・ストレス
- 社会からの孤立状況
などが複雑に交錯し、犯行時の精神状態に影響を与えた。
永山は犯行前から既に高度の精神的な偏り・神経症の兆候などを発現し、犯行時には精神病に近い精神状態だった。」
というものであった。
刑法には、責任能力という概念がある。
責任能力とは、物事の善い悪いを区別したうえ、「悪いことを行わない」と選択できる能力である。
この能力がない場合、罪を犯したことを責めることはできないから、犯罪に問われなかったり、減軽されたりする。
具体的には、
- 心神喪失(刑法39条1項)…罰しない
- 心神耗弱(同2項)…減軽
- 刑事未成年者(14歳未満。同41条)…罰しない
である。
永山には、左右の脳の発達に偏りが認められている。
石川が「犯行時には精神病に近い精神状態だった。」と診断したのは、単なるテストの結果ではなく、肉体的要因に基づく確実な理由からであった。
すなわち、幼い頃の母親からのネグレクト・兄弟からのせっかんにより負った精神的なダメージが、脳という判断能力を司る器官に物理的にも傷害をあたえたことを示している。
これはまさに、物事の善い悪いを区別したうえ、「悪いことを行わない」と選択できる能力に対するダメージであり、責任主義の観点から、心神喪失・心神耗弱を認定すべきであったのでないか。
少なくとも、死刑という「最高」刑に処せられるべきではなかったものと思われる。
もっとも、石川鑑定で述べられたのは、このような結論部分のみではない。
永山を「精神病に近い状態」に陥れた背景について、石川鑑定は詳細・綿密に語っており、それが石川鑑定の真骨頂である。
石川鑑定で明らかになった犯行の真の原因
網走時代
永山は、網走に住んでいた極貧少年時代、日々食っていくため仕事に忙しい母親に全く愛情を注がれず、兄弟が永山をせっかんするのを見てみぬふりするなどされてきた。
さらに母親が一部家族を連れて青森へ移住する際に、わずかな食糧を残して置いてけぼりにされ、網走の極寒と飢えに耐え、生死をさまよう一冬を過ごしている。
想像を絶する
人間というのは、されたことをし返す。
加害者は、以前誰かから(犯罪者の多くは親)から攻撃を受けた被害者であり、その親もそのまた親から攻撃を受けている被害者であることが多い。
憎しみという負のエネルギーは、世代を超えて受け継がれていってしまうのだ。
則夫をネグレクトしていた母ヨシについてみると、2歳で父を失い、母親と樺太り、蟹の缶詰工場で働く母の代わりに、子のおもりをさせられていた。
子供らしく遊んだり、学んで精神を向上させる暇などあたえられなかった。
それだけでなく、再婚相手(以下「M」)から、夜ごとひどい暴行を受けた。
逆さに縛られて、たたかれるのである。
さらに、母親の仕打ちがひどい。そんなヨシに対して母は、「死んでしまえ。生きていてもなんにもならね」と言い放った。
母は、ヨシと一緒に川に飛び込み心中しようとした。
しかし、ヨシは死ぬのが嫌だと泣きわめき、必死に抵抗したのだった…
ヨシが10歳になったころ、母親はと、男の実家のある青森に帰ることとなった。
しかし、ヨシをい疎ましく思うMは、ヨシを連れて行こうとしない。
結局、母はMを選び、ヨシを樺太に置き去りにした。
このように、ヨシも、母親に、精神的にも肉体的にも捨てられていたのだ。
…
…
そんなヨシも、腕のいいリンゴ栽培技師(永山の父)と結婚することになり、やっと幸せが訪れるかと思われた。
しかし、父は太平洋戦争への応召後、仕事もせず博打と飲酒にのめり込むようになり、家に一切金を入れないどころか米や味噌を持出し金に換えるようになった。
ヨシは一日中リンゴの行商で働かざるをえず、日々の窮乏と戦うことに精一杯になり、子供達に目をかけたり、人格を向上させる時間などなかった。
このように、則夫を攻撃したヨシは、その母と夫、永山の父究極的には国家から攻撃を受けていた「被害者」であった。
人間は、されたことをし返すのである。
そのようにして愛情を与えられず育った則夫は、やがて悪い仲間とつるみ、窃盗に手を染めることになる。
わざと見つかるように、店のレジを盛大な音を立てて開けて金をとったり、捕まることがわかっていても無賃乗車をして家出をし、母親を困らせていた。
しかし、母親は、そんな則夫にかまっている暇などなく、「早く就職してどこかへ行ってしまえ!則夫が行ったら赤飯炊くべし!」と拒絶し続けた。
そのようにして愛情なく育った則夫は、自信を持つことができず、人を信じることもできない人間に育った。
上京後
東京でせっかく就職できても、「自分の過去(犯罪歴)がバレたのではないか」と疑心暗鬼に襲われ、人間関係を築くことができず、転職を繰り返し、最後にはブラック過重労働の極みの沖仲仕(おきなかせ。リンク先はwiki)というやくざに雇われて港で荷物を運ぶ仕事で日銭を稼ぐようになる。
しかし永山は、仕事の合間にも、学をつけて自信をつけようと、定時制高校に通うようになるが、沖沖仕での重労働での疲労、自発的な動機でなくモチベーションが続かないことから、やがて足が遠のいてしまった。
人は、母親から愛情を与えられ、「失敗しても大丈夫」「自分のやりたいことをやっていいんだ」「自分は自分でいいんだ」という安心感があるから、
- 失敗を恐れず、
- 本当のモチベーションを発揮して、
- 与えられた愛に対して恩返ししようとして、
ガンガン努力できる。
愛情がない努力は続かない。
永山は努力しようとはするのであるが、それは「家族から迷惑かけるなと言われたから」というものであり、そんな他者から与えられる拒絶の感情に報いるためにやる気がわかないのは当然である。
母親からの愛情がなければ、それを補完するのは国の役割である。
生活保護が、その代表例であろう。
もっとも、生活保護というのは基本、本人が申請しなければだめだし、生活保護世帯への世間からの風当りは強い。
したがって、
- 制度自体を知らない
- 憲法が保障した基本的人権に基づく権利であり、堂々と使っていいことを理解できない
- 申請スキル
がない貧乏人には無縁である。
このような「受身」の日本の福祉は、日本の国民に対する愛情不足を表している。
永山が、「社会への憎しみ」を抱く原因はここにあると思われる。
…
また、人は、目標がなければ努力できない。
目標とは、権威であり、人を一定の方向に向かわせるべく律するものである。
幼少時は、父親がこの目標・権威となる。
しかし、前術の通り、永山の父親は博打狂いであり、最後は、網走を走る電車内で10円を握り締めて、汚い恰好で死んでいたという。
その姿を写真で見た時、永山は「俺は何で生きているのかな…」と無力感に拍車がかかってしまった。
…
このように、永山は、母親の愛情、父親の権威という努力できる環境がなかった。
永山の無知は、このようにして生み出された。
沖沖仕での重労働による疲れと孤独は蓄積していった。
そんな中でも、永山は、沖沖仕の仕事をしている中年男性から、父親の姿を探していた。
汚い恰好で、日銭を稼ぐために働く中年男性をみて、自分もこのままではこの人たちのようになってしまう、「父親のようになりたくない。」そう思った。
何とかして現状を変えるため、永山は海外行のフェリーに忍び込んだ。
しかし、途中で船員に見つかり、鑑別所に送り返されてしまった。
鑑別所で待っていたのは、同居の収容者によるリンチ。
歯磨き粉やトイレの水を飲まされたり、激しくせっかんされたという。
現状を変えたくても、努力は報われず、海外にも行けない。
ふらふら糸の切れた凧のようになった永山は、横須賀米軍基地に侵入する。
ある軍曹宅を漁っていると、小さなピストルと弾丸を見つける。
このとき、永山は、「やっと友達に会えた」と宝物をみつけたような気持ちになったという。
出会ってはいけない者が、出会ってはいけないものに、ついに出会ってしまった。
ピストルを隠し持ち、東京をふらふら彷徨う永山。
第一の犯行~プリンスホテルガードマン~
ふとみると、東京プリンスホテルのまばゆい光が目に飛び込んできた。
疲れ果てたた永山は、その光に何か希望を見出したのか、吸い寄せられるように敷地に忍び込んでしまった。
そこで、第一の犠牲者と出会う。
「そこで何をやっている!」
原始的な防衛本能が赴くまま、永山は引き金を引てしまう。
第二の犯行~京都八坂神社のガードマン~
永山は、死ぬ前に、映画で観たきれいな京都の町を見ておきたかった。
無賃乗車で京都に着いた永山は、ひどくがっかりした。
目に着くのは古びた寺や神社ばかり。永山の心を満たす希望は見つからなかった。
深夜をまわり、八坂神社の境内に歩いて入った。
「どこ行くんや!」
びっくりして振り返ると、光の輪の中に男が立っていた。
「あっちへ行く!」と立ち去ろうとしたが、道をふさがれた。
なんで、こんなしつこいのか。怒りのような気持ちがムクムク湧いてきた。
手を掴まれる寸前、目をつぶって引き金を引いた。
…
…
永山は鴨川の岸辺でひとり、膝を抱いていた。
「2人殺してしまった。今度は自分が死ぬ番だ」
だが、その前に、兄弟の中でたった一人、たまに家に泊めるなどして面倒を見てくれた次男につらい気持ちを聞いてもらい、慰めてもらいたかった。
「兄貴のところに戻ろう」
「どうせ死ぬなら熱海で」
池袋の次男宅にいき、人を殺したこと、網走に戻り死ぬことを告白した永山。
そこまでの費用として、「1万円くれ!」と言ったところ、次男から発せられた言葉は、「どうせ死ぬなら熱海でいいじゃないか」。
最後の頼みの「綱」が、自分の命の心配などまるで心配していないことを、まざまざと知った永山。
これまでかろうじでこみ上げる憎悪を押さえていた「兄弟に迷惑をかけないようにしよう」という気持ちは吹っ飛んでしまった。
- 「どうせ死ぬならいくら悪いことをやってもいいだろう」
- 「どうせ死ぬなら、大暴れして手間をかけさせて死ぬ」
兄弟へのあてつけ、復讐のため、永山の足は故郷網走に向かった。
第三の犯行~函館のタクシー運転手~
函館から網走に行こうと電車にのっても、自然と体は函館に戻ってきてしまう。
永山の心は、死にたいという気持ちと死にたくないという本能との矛盾で混乱していた。
駅から少し離れた路上でタクシーを待ち、しばらくして到着したタクシーに乗り込んだ。
目的地は、七飯。永山が昔遠足で来た地名だ。
日は沈んでいる。周りは畑ばかり、その先には民間の明かりが小さく見えるだけだ。
「どの辺ですか?この辺ですか?」
運転手の怪しんでいるような声色に、永山は「ばれた」と思った。
「停めてください!」
停まるやいなや、運転手の頭めがけて引き金を引いた。
すると、車が坂道をガタガタと音を立てて後退し、後ろの石垣にぶつかって止まった。
運転手は、ぐったりして動かない。
永山は、ダッシュボードの下にあった小銭入れを鷲掴みにして、車外へ飛び出した。
あとから数えると、8700円あった。
遠くで、犬の吠える小手が、こだまのように響いていた。
第四の犯行~名古屋のタクシー運転手~
それから10日後、名古屋。
永山は函館でやったのと同じように、深夜、タクシー運転手を撃ち殺した。
なぜ、名古屋なのか。
名古屋には、三男が住んでいた。
永山は、「骨くらいは拾ってくれると思った」と語る。
これは、直接的な表現をさけているが、その実は、自分が長男や次男から受けたせっかんを見てみぬふりをし、関心を払わなかった三男に「当てつける」というものであったのだろう。
…
…
東京で永山が逮捕されたとき、刑事に「苦しかった」と語ったという。
石川鑑定は、「効率性」の裏側に隠されていた、以上のような永山の愛情不足が生み出した苦しみに光を当てるものであった。
石川鑑定が永山と死刑判決を変えた!~獄中婚約者「ミミ」の登場~
1981年8月21日、控訴審判決公判が開かれ、船田三雄裁判長 は第一審・死刑判決を破棄して、永山を無期懲役に処する判決を言い渡した。
その判決理由は以下のようなものであり、石川鑑定の内容を最大限尊重するものであった。
本事件は被告人(永山)が少年の時に犯したものである。
永山は当時19歳であるため、法律上は死刑を科すことは可能だが、18歳未満の少年に対し死刑を科さない少年法(第51条)の精神は年長少年(18歳・19歳)に対し死刑を適用すべきか否かの判断にも生かされなければならない。
永山は出生以来、極めて劣悪な生育環境にあり、精神的な成熟度に関しては実質的に18歳未満の少年とほとんど変わらないだろう。
そのような生育史を持つ永山が犯した犯罪の責任を負うことは当然だが、すべての責任を永山だけに負わせ、その生命で償わせることはあまりにも酷である。
国家社会には劣悪な環境にあった永山に対し、早い機会に救助の手を差し伸べる義務があって、国家の福祉政策の貧困も事件の一端である点を考えれば、社会福祉の貧困も永山本人とともに事件の責任を分ち合わなければならない。
さらに、石川鑑定を経た永山は、生きる希望を取り戻し、その光に引き寄せられた文通相手と獄中結婚をして、その妻と「一番成績がいい人が一番成績の悪い人を教える塾を作る」という夢を語るまでになった。
その点も、以下のように判決理由で考慮されている。
永山は文通で知り合った女性と獄中結婚し、当審で証言した永山の妻も『たとえ許されなくとも被害者遺族の気持ちを慰謝し、永山とともに生涯にわたり贖罪し続けたい』と誓約している。
このように誠実な愛情をもって接する人を(おそらくは人生で初めて)身近に得たことにより、永山は当審における被告人質問の際に素直に応答したり、被害者遺族に対し出版された印税を贈ることで慰謝の気持ちを示すなど、心境の変化が著しく表れている。
永山による一連の犯行で家族を失った被害者遺族の感情は到底それらによって償えるものではないが、妻による贖罪の行動により、東京事件(被害者・男性A)の遺族を除く3事件の被害者遺族の心情は(第一審当時と比べ)多少なりとも慰謝されているように認められる。
その詳しい説明とミミとの馴初めは、後編で扱う!。
お楽しみに!
最高裁で再び死刑判決・死刑執行
石川鑑定を経て、ようやく変わり始めていた永山の人生。
しかし、高裁判決は検察官による上告を経て、最高裁で逆転死刑判決となり、確定してしまった。
永山は、「生きたいと思わせてから殺すのか」と無念をにじませ、最後まで支えようとするミミに離婚を突き付け、再び自分の殻に閉じこもってしまう。
そして、死刑執行の日。
引用元:【写真特集】これが死刑の刑場(1)落下した死刑囚を確認する執行室
永山と一緒の建物に収容されていた者の話では、当日朝、「叫び声がこだました」という。
死刑執行を終えた後、遺体はミミををはじめとした関係者に引き渡されることなく、刑務所の手によって火葬され、遺骨のみ引き渡されたという。
永山は、生前「死刑制度への抗議のため、最後まで抵抗する」と語っていた。
永山の体には、刑務官には見られたくない「戦いの跡」残っていたのだろう。
変えなければならない。
この問題点と改善策も、後編で詳しく述べる。
結果は残念なことになってしまったが、この経験を活かしていくことが、被害者・永山の命に報いる俺たちの責任だ。
後編は鋭意執筆中なので、ぜひ読んで、一緒に考えていただきたい。
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