オス!かずだ!
楽しく、学びがあるアマプラ映画をどしどしシェアしていくな!
俺と一緒に、「この映画ではどんな法則(教訓)が隠れているのか」考えて思考力を高めていこう!
一緒に楽しんで学んでこう!
Amazonプライム会員だと無料で観れるものが多いから、登録がまだの方は済ませておこう(リンク先の「プライム」をクリックまたはタップ)↓
初回登録者には必ず30日間の無料体験が付与されており、料金の支払いが始まる前にすべてのサービスを実際に利用できる。
さて、今日のお話は…
作品情報
『そして人生はつづく』は、アッバス・キアロスタミ監督による1991年のイラン映画であり、前に紹介した『友達のうちはどこ?』に続く、『ジグザグ道三部作』の第2作目である。
『そして人生は続く』は、3万人以上が死亡した1990年イラン地震(M7.4。ルードバール地震)の後、キアロスタミが息子を連れて、前作『友だちのうちはどこ?』の出演者の安否確認のため現地を訪れるロードムービーである。
事実に基づいたセミ・フィクションであり、ドキュメンタリー形式で撮影された。
「独自で特異な」作品群が提供される、カンヌ国際映画祭の「ある視点部門」で公開され、多くのロードムービー好きや映画監督を魅了している。
大地震にもかかわらず、それを受け入れ、生きていく人々。
ゆっくりした時間が流れ、リラックスできる。
が、監督は、その中にいろんなメッセージを隠している。
それを読み解いて、今は亡き監督と対話するのが、『ジグザグロード三部作』の面白さだ。
ストーリー(概略)
1990年、大地震がイラン北部を襲った。
「友だちのうちはどこ?」の撮影地は被災地の近くだ。
映画の少年たちの安否を気遣って、監督、キアロスタミは息子のプーヤとともにオンボロの車に乗り込み、撮影の行われたコケール村に向かう。
途中、セメント工場が見えてくる。
地震でも倒壊せずにたたずむその姿をみて、プーヤは、「みんなの家もセメントかな?」と問う。
監督は、「泥と日干しレンガだ」と答える。
まだ幼いプーヤも、状況を飲み込んだ。
…
…
道中、プーヤが立ちションするのだが、そこでバッタを捕まえる。
監督は、「バッタは草原のものだ。放しなさい」と叱る。
プーヤは、「何でバッタは移住するのか知ってる?それは、草を全部食べちゃうからだよ」と言葉を残して、バッタを解放する…
…
…
監督たちは、車で被災地に向かうのだが、その途中、渋滞に巻き込まれてしまう。
ふと、横を見ると、そこには舗装されていない道が続いていた。
プーヤの心配をよそに、監督は、ハンドルを切る。
「道は、どこかに続いているものさ」
…
…
未知の道を進む中、監督はこの先がコケールに繋がっているのか、人々に尋ねる。
人々は、
- 「塗装された道に戻った方がいい」
- 「コケール村は全滅だよ」
- 「この車じゃ無理」
…と監督に忠告を与える。
だが監督は、自分のジグザグロードを、ゆっくり、じっくり進んでいく。
…
…
壊滅した町。
人々は、淡々と、瓦礫を片づけたり、建物を復旧さようとしている。
監督はオンボロ車で走り、ときに止まりながら、彼らと、彼らの中にある地震に、向き合っていく。
大きな陶器を担いで歩いている、おじいさんがいた。
よく見ると、『友達のうちはどこ?』に出ていた、おじいさんだった。
このおじいさん、「素」を描いている今作でも、変わらずマイペース。
ナゾの陶器と一緒に彼を車に乗せてあげ、「こんな大変な時に、なに運んでんの?」と尋ねると、
「これ?生きている人に必要なものだよ」とのこと……
あらためてよく見ると、
便器だった。
おじいさんを、家まで送り届けた。
相変わらずのおじいいさん、相変わらず意味深なメッセージを残してくる。
- 「地震とは、腹のすいた狼のようなもので、手あたり次第に食べてしまう。地震は、神様の仕業ではない」
- 「人は、死んではじめて、生きているのがわかる。もし死んだ人が生き返るなら、もっと善く生きられる」
- 「ここ、実はわしの家じゃない。ここは映画の中の家なんだ。映画の中の人が、わしの家だと決めたんだよ」
不法占拠を煙に巻いているだけとも思われる言葉だが、プーヤの心には、なぜか染み込んでいった。
近くの泉で、娘さんを亡くしたお母さんが洗濯をしていた。
「神さまがそう望んだのね」という母親に対して、プーヤは、
「神様は優しいんだ。人を殺したりしないよ。娘さんはもう宿題とかやらなくていいし、もっと善く生きられるようになるんだよ」
…
…
おじいいさんの元を出発した、監督とプーヤ。
次に出会ったのは、新婚ほやほやの新郎。
地震で家族を多数亡くしたにもかかわらず、地震直後に結婚したのだという。
「次の地震で死ぬかもしれないからね。今のうちに生きるのを楽しんでおくのさ」
…
…
次に、たどり着いたのは、被災者のキャンプ。
この中で、サッカーの試合をみるためにテレビアンテナを立てている男に出会った。
この男も、姪を亡くしたという。
サッカーなんか見てる余裕はあるのだろうか?
「地震は40年に一度だけど、ワールドカップは4年に一度だからね」
…
…
さあ、そろそろ進まないと、日が沈む。
プーヤはサッカーを観たいというので、キャンプに置いて、監督だけコケール村に向かった。
コケール村は、高台にあり、その途中には急な上り坂がある。
このオンボロ車で、乗り越えられるのだろうか?
とにかく、アクセルを緩めないようにしなければ。
監督はアクセル全開で、助走に入った。
苦しそうに、唸るエンジン。
ふと横に、親指を立てている、荷物を担いだ男がいる。
気にかかったが、止まることはできない。
オンボロ車は坂を這い上がっていく。
が、息が切れ、徐々に後退していく。
荷物を担いだ男と、今度は逆から、ゆっくり、ゆっくり、すれ違う。
だが、男は、ドヤ顔なんかしなかった…
車の後ろに回り、押しだした。
なんとか坂を登った、二人。
オンボロ車は彼を乗せ、友への道を、走り始めた…
かず考察
イランは、イスラム教徒が99%である。
彼らの地震に対する向き合い方から、俺達日本人が学べることは多いと思う。
イスラム教が信仰する神、アッラーは、すべてのものの、創造主。
地震も、絶対的な神様のなせる業ということになり、だからこそ、地震に遭って家族を亡くした人々の、
- 「神様の意思なのね」
- 「生きているうちに楽しまないと」
- 「ワールドカップは4年に一度、地震は40年に一度」
という楽観的な受容の態度が生まれてくる。
だけど、前作でも登場したマイペースじいさんは、「地震とは、腹のすいた狼のようなもので、手あたり次第に食べてしまう。地震は、神様の仕業ではない」という。
これはどういう事だろうか?
この対比構造が、このじいさんが、本作でも大事なポジションを守っていることを物語っている。
考えてみよう。
…
…
たしかに、被害に遭って嘆き悲しんでいるよりも、「神様がやったんだから、しょうがいないじゃん」といって前を向く方が、幸せなのだとも思える。
しかし、「なぜ、この被害が起きたのか」に向き合わないと、次の地震でも同様に大きな被害を生んでしまうし、ムリヤリ悲しみを心の底に押し込んで、抱え込んでしまうのではないだろうか。
真の「前向き」とは、文字通り前に進むこと、改善して進化することであり、ただのポジティブシンキングではない。
宗教の陥る形骸化、それが語られざるメッセージとして、潜んでいると思われる。
それは、おじいさんの言葉を受け継いだプーヤが語った、「神様は殺さない」という言葉に潜んでいる。
つまり、「大切な人の死を受け入れるだけでなく、今の生きている人のために活かせ」ということである。
ここで、冒頭で登場した、地震でも倒壊しなかった、セメント工場が意味を持ってくる。
文明の利器を活かすのである。
…
…
一見、イスラム教の受容の精神をそのまま賛美しているかのように見える本作であるが、実は、監督は釘も刺している。
なぜ、監督はこのような回りくどい方法を取ったのだろうか?
それは、直接いうと問題になるからである。
イスラム教は、上述したように、「絶対神」をガチガチに信仰する。
そこに、「運命は、人間が、自分で創っていく」と結論だけで切り込めば、カドが立ち、反発を生む。
人は、自分で考えて辿りついたものでしか、モノにすることはできない。
型は、はまるものでなく、活かすものである。
「本当に大切なものは、何だろうか」
そこを目指して人間は、絶え間ない進化の過程を生きている。
そこを忘れない限り、運命は渋滞しない。
道は、続いてることが大切なのであって、
- 横道でも、
- 曲がっていても、
- ジグザクでも、
構わない。
むしろ、そっちの方が、おもしろいのだ。
そして、道は、いくらでも創造できるのである。
作品へのリンク
監督は、俺が考察したポイント以外にも、本作に多数のメッセージを込めていると思われる。
監督と、直接話してみよう。
そんで、俺にも教えてくれると嬉しい。
コメントを残す